千代の富士のライバル・隆の里、時代を先駆けたビデオ研究 見過ぎてビデオデッキが2台壊れた逸話も(小林信也)

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 優勝31回、「昭和最後の大横綱」とたたえられる千代の富士を最も苦しめたライバルが隆の里だ。

 年齢は隆の里が三つ上。出世は千代の富士の方が早かった。千代の富士が横綱に昇進した1981年9月場所、小結の隆の里は2日目に新横綱と対戦した。

 立ち合い、千代の富士が下から食らいつき、頭をつけた。隆の里は苦しみながらも抑えられていた左腕を振りほどき、千代の富士の上体を起こすと右四つ両回しをがっちりつかんだ。土俵中央で互いに揺さぶり合った後、隆の里が右をグッと引き付け、左からの上手投げで千代の富士を土俵に転がした。ひねられ、崩れ落ちた千代の富士は、夏巡業で痛めた左足首を悪化させ、休場に追い込まれた。

 隆の里は幕内での千代の富士との対戦成績16勝12敗(十両含め18勝13敗)。千代の富士が横綱昇進後も11勝6敗と圧倒した。しかも千代の富士が綱取りに成功した81年7月場所から横綱初期の82年9月場所まで、なんと8連勝。千代の富士を寄せ付けなかった。

 ウルフの異名を取り、最強伝説、不敗伝説がさんぜんと輝く千代の富士だが、その域に達する前に、実は打倒・隆の里の関門があった。

血糖値が400超

 隆の里こと高谷俊英は、52年9月、青森県南津軽郡浪岡町(現・青森市)で農家の次男に生まれた。

 弘前出身の二子山親方(初代若乃花)が、後に横綱・若乃花(二代目)となる下山勝則少年をスカウトした帰り、タクシーの運転手から「浪岡にも大きいのがいますよ」と教えられ、急きょ誘いに行った。親方は二人を寝台列車に乗せて東京に戻った、という伝説が残されている。

 一緒に入門した二代目若乃花は誰より隆の里の底力を知っていた。先に大関、横綱に昇進したが、聞かれるたび、「ライバルは隆の里です」「隆の里はオレより強い」と繰り返し答えた。

 隆の里の出世に時間がかかった理由は明白だ。まだ幕下時代の72年に糖尿病を患い入院した。10代のころから酒が好きになり、日本酒、ビール、ウイスキーを連日浴びるほど飲んだ。空腹時血糖値が400を超えるまでになっていた。

 退院後の隆の里は、糖尿病を克服するために食事の研究と実践を熱心に続けた。力士には必須の大食がご法度になった。ご飯は1杯で我慢し、酒は控えた。空腹を満たすため、ワカメを丼で食べ、後援会の宴席でもひとり無塩のトマトジュースを飲んだ。当初は兄弟子や後援者から「付き合いが悪いヤツだ」と非難されたが、二子山親方夫妻の理解と通達があって、周囲も容認するようになった。

 元々の性格もあったのか、隆の里の行動は他の力士とかなり違った。知性のない質問ばかりするマスコミが嫌いで、場所中も支度部屋でなく警備室にこもり、取材を受けなかった。

 幕下で3年を過ごし、十両、幕内に昇進しても上がったり下がったりの時期が6年近く続いた。ようやく80年7月場所、前頭12枚目で12勝3敗、敢闘賞を受賞してから上昇気流に乗った。

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