「偏差値トップクラスの大学でも基本的な言葉すら知らない」 現代人の語彙力の低下と、その鍛え方 宮崎哲弥×齋藤孝

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「使われないからオワコン」は本当か

齋藤 いま、子どもが大人になっていく過程での精神の形成と言葉の習得とが、どんどん離れていってしまっているのではないでしょうか。言葉を便利な道具としか見なければ、易しい言葉を使えば使うほど良いということになる。しかし、その立場から見聞きしたことを言い表しても、その表現は薄っぺらいものにならざるを得ません。

 友人関係一つとってみても、非常に親密な友のことを「莫逆(ばくげき)の友」、この人のためならば、たとえ首を刎(は)ねられてもいいと思える交友を「刎頸(ふんけい)の交わり」、お互い心の奥底まで打ち明けるほどの親密さを「肝胆相照らす」、胸のうちをすっかり打ち明ける関係を「胸襟を開く」と言います。こうした文語的語彙を知り、それを自ら使えるようにする。そんな教養と自己形成がセットになっているのが、ドイツ語の「ビルドゥングスロマン」という言葉でした。いま、これら味わいのある成句はすっかり忘れ去られてしまいました。

宮崎 漢語にはそうした剛直な感情表出に使い勝手がよい言葉がたくさんありますね。理屈を説くのにも向いている。

齋藤 漢文教育はいま、時間も領域も減らされています。大学入試でも出さないところが増えています。使われないからオワコンだという人もいるくらいです。

宮崎 精神文化の断絶というのは、そういう言葉遣いのレべルの断絶から始まります。漢籍の教養がなくなれば、その文化も消えます。ただ私は、漢語より和語の伝統の方が早く廃れるのではないかと危惧しています。それで今回の本には、「はしなくも(=思いがけず)」「ゆくりなく(=期せずして)」「さやか(=明瞭である)」「きわやか(=くっきりと目立つ)」といった和語系の上級語彙を多数載せたんです。これらは昭和30年代の映画にはちゃんと出てきます。「ゆくりなくも再会した」とか「星空を仰いでいると、ゆくりなくもプラネタリウムを思い出した」というふうに使いますが、文中にうまく溶け込ますと、「ゆくりなくも」文章が味わい深くなる(笑)。

完全に置換できる単語なんてない

齋藤 とっつきにくそうな古文も、音読すると、現代語訳よりも原文の方がいい。これは小学生でもわかりますよ。例えば、『竹取物語』です。その言葉遣いは和語として、実にきれいです。「今は昔、竹取の翁といふものありけり」とか、「三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり」とか「もの知らぬこと、なのたまひそ」など、心地よく、日本語の独特のリズムが感じられます。やはり言語は、日本人が共有する土壌を提供し、精神の骨格を作ってくれているのでしょう。

宮崎 私は厳密に同じ意味の言葉は一つもないと考えています。例えば「笑む」と「笑う」と「ニコニコする」は、辞書では大体同じ意味になっていますが、本当は違う。辞書は「ある言葉を他の言葉によって説明する」書物で、そこが限界です。未知の言葉の世界への入口として有用で、使っているうちに意味や用法が微妙に異なることがわかってきます。他の言葉に完全に置換できる単語なんてないのです。できるだけ平明な表現に直した方がいいと言いますが、それでは語と語の微細な違いが飛んでしまう。

齋藤 『古事記』では、アマテラスが天岩戸に隠れてしまった時、彼女に出てきてもらうために、外で宴会をやって八百万(やおよろず)の神々が笑ったというくだりがありますね。その「笑った」は、割とガサツで、ハハハ、ワイワイという感じですが、この大和言葉の「わらう」に、「花が咲く」の「咲く」の字が当てられています。「咲」で「わらう」と読む。漢字を使う日本語には、そんな面白さもあります。

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