「偏差値トップクラスの大学でも基本的な言葉すら知らない」 現代人の語彙力の低下と、その鍛え方 宮崎哲弥×齋藤孝

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 何もかも「カワいい」や「ヤバい」で、すます人がいる。あるいは、いつどこでも決まりきった言葉や表現しか使えない人がいる。昨今は子どもはおろか大人の語彙力の低下も著しい。そこから脱け出すには何をすればいいのか。人生を豊かにする「上級語彙」の身に付け方。【宮崎哲弥(評論家)×齋藤孝(教育学者)】

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 ――日本人の語彙力の低下が叫ばれて久しく、いまでは子どものみならず、大人の表現力の低下が深刻化しています。

宮崎 語彙力の低下を如実に感じたのは、もう10年近く前になります。何かの集まりで、学生に大学構内の集合場所を聞いたら、「木が一カ所にいっぱい植えられているところで……」と言う。それでは要領を得ないのでよく聞いてみると、どうも「植え込みの前」と言いたいらしい。驚いて「植え込み」という言葉を知らないのかと聞くと「はい」と、すまし顔で答えたんですね。あえて申し上げますが、偏差値トップクラスの大学での出来事です。

齋藤 いまや「憤懣(ふんまん)やるかたない」と言っても、多くの人はよくわからないという表情をしますね。だから、「怒りをどこにもぶつけられない」と、別のわかりやすい言葉で言い換えなければいけない。ほんとうは出くわした状況にぴったり合う言葉があるのに、わざわざぼんやりした表現に置き換えている。そんな時代になっています。

「底辺」の語彙力

宮崎 さっきの話にはまだ続きがありまして(笑)。同じ学生に「じゃあ、『生垣』は知ってる?」と根問(ねど)いすると、やはり知らないと言う。そこで別の学生にも「アレ何だっけ」と問うてみると、「塀のように家の周りに巡らしてある木々」とか言う。やはり「生垣」を知らない。このように日常空間を表す語彙すら失われてきている。この傾向が極端になっていくと、ノンフィクション作家・石井光太氏の著書『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)に出てくる「オノマトぺでしか自分の犯した罪を説明できない」非行少年みたいな話法に行き着くんでしょうね。「グリグリ」とか「バァー」とか「ガッ」といった表現でしか、自分が経験した状況を説明できない。こうした少年たちの「底辺」の語彙力に大学生までが漸近しているとすれば、日本全体はどうなってしまうのか。

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