三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

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大きすぎる貢献と裏切りとのギャップ

 元和2年(1616)4月17日、家康が駿府で死去すると、正信は一切の政務から退き、同じ年の6月7日、家康のあとを追うようにこの世を去った。享年79。当時としては異例の長命だった家康よりも4年ほど長く生きた。

 本多正信は徳川四天王にも徳川十六神将にも数えられていない。しかし、それは先に述べたように、家康のそばに弛まず使えてきた武将たちに、裏切り者へのやっかみがあったからだろう。現実には、正信の力がなければ江戸幕府の成立も、その後の二百数十年にわたる天下泰平もなかったと思われるほど貢献度が高い。

 それがもとはといえば家康を裏切った家臣であった――。正信が一向宗側の参謀であったのか、実際、家康の命まで狙ったのか。それは史料からはわからないが、家康の窮地で裏切ったという事実だけでも、のちの大きすぎる功績とのギャップはあまりにも大きい。

 だが、過去がどうであれ、才能を見抜いて重くもちいる度量があったから、家康は天下人になれたのである。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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