三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

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兄弟で家康を裏切った

 ドラマでは一揆の拠点が本證寺に置かれ、本多正信の姿も本證寺内にあった。一揆の中心がどの寺にあったかについては諸説あるが、『三河物語』には、発端は本證寺だったと記されている。

 この本證寺の門徒団の中心は石川氏だった。気づく人もいるだろうが、ドラマの初回から家康の片腕として側近くに仕えている、松重豊扮する石川数正の家系である。事実、その多くが一揆方にくみしたが、数正自身は浄土真宗から浄土宗に改宗してまで、家康への忠誠を尽くした。

 また、門徒団のなかには本多一族も多かった。同じ本多姓でも、ドラマで山田裕貴が演じる本多平八郎忠勝らは家康側についたものの、『三河物語』によれば、より本家筋に近いとされる本多正信と正重の兄弟は、本證寺ではないが、家康を裏切った酒井忠尚の上野城に立てこもったというのだ。

 しかし、それ以上の記述はない。だから、正信が一向宗側の軍師(ドラマでは、本證寺の住職で市川右團次が演じる空誓上人の軍師)であった可能性を否定する材料もないとはいえ、そこは基本的に大河ドラマの創作である。しかし、のちの本多正信との対比を鮮やかにするための、巧妙な脚色だということもできる。

加賀一向一揆にも参加か

 永禄7年(1564)に三河一向一揆が収まったのち、正信は三河国から出奔し、それから18年ほど消息がハッキリしない。

ただ、諸史料によると諸国を流浪し、一向一揆に参加していたようだ。少なくとも、一向宗の敬虔な信徒ではあったのだろう。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』によれば、一向宗の力が強かった加賀国(石川県)に住んだという。そこで一揆に参加し、織田信長の軍勢と戦ったという説もある。

 また、東大寺大仏殿を焼き払うなど悪名高い松永久秀に仕えたともいわれる。その間、三河に残してきた妻子は、ドラマで小手伸也が暑苦しい家臣を好演している大久保忠世が世話をし、本人も忠世の口利きで家康のもとに、鷹匠として帰参したという。

 鷹匠を務めたこと自体は不自然ではない。正信の父の俊正も、鷹匠として松平家に仕えていたからである。

 ただし、帰参した時期については諸説あるが、出奔して6年後の元亀元年(1570)には、浅井および朝倉の軍勢と戦った姉川の戦いで奮闘したという説も。いずれにせよ、天正10年(1582)までには家康の信頼を取り戻していたことはたしかである。

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