三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

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 松山ケンイチ演じる本多正信を後ろ手に縛ったヒモを、小刀を抜いて切ってやったのち、松本潤が扮する松平家康が放ったセリフが印象的だった。「本多正信、この三河(愛知県東部)から追放とする。二度と戻ってくること相ならぬ!」

 NHK大河ドラマ『どうする家康』の第9話「守るべきもの」。前話から続けて描かれたのは、勃発した三河一向一揆への対処を「どうする」かと悩む家康の姿と、一揆側に家康の家臣である本多正信が軍師として参加し、鉄砲を放って家康の命までも直接ねらっていた、という話だった。

 家康が三河一向一揆に苦しめられたことはまちがいない。一揆を起こした一向宗(浄土真宗)の門徒には、農民をはじめとする庶民が目立ったとはいえ、武士や土豪の門徒も少なくなかった。家康の家臣たちも例外ではなく、なにしろ、そのうちの一定数が一揆方にくみして、家康の家臣団が二分されるほどの事態になってしまったのである。

 そのうちの最大のキーマンが本多正信だった――。ドラマではそう描いていた。

寺側の自治権を侵されたのが一揆の原因

 そもそも、なぜ一向一揆が起きたのか。一揆について同時代の史料はほとんどないが、比較的早く成立した史料の多くは、一向宗側が不入の権を侵されたからだと記している。

 不入の権とは、簡単にいえば、租税を納めなくてもいい権利のこと。当時、三河国の一向宗側は戦国大名に対して租税の納入を免除され、警察権などを行使する権断使の立ち入りさえも拒否できた。つまり、一向宗の寺院とその周辺は自治を認められていたのだ。

 だが、家康はこうした例外を認めたくなかったのだろう。『松平記』には、家康の家臣が干してあった籾を寺から持ち帰ったために争いが起きたことが、『三河物語』には、やはり家康の家臣が寺内にいた狼藉者を捕らえようとしたため、騒乱になったことが書かれている。

 ドラマで描かれたのも同様に、家康が不入の権を問題視し、年貢を取り立てようとして一揆が発生した、というストーリーで、通説にしたがっていた。

 では、一揆側のキーマンはほんとうに本多正信だったのか。

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