三河一向一揆で家康に追放された松山ケンイチ「本多正信」 その後の大復活劇がスゴすぎる

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実力で勝ちとった家康側近の地位

 天正10年は6月2日に織田信長が本能寺の変に斃れた年だ。そのとき堺に滞在していた家康は、決死の「伊賀(三重県西部)越え」で帰国したが、江戸時代に新井白石が記した『藩翰譜』には、そのとき正信も付き従ったと記されている。後世の二次史料だから真実とは言い切れないが、そのころから正信が表舞台に戻っていたことはまちがいない。

 同じ『藩翰譜』には、その後「常に御側に伺候して軍国の議に与る」、つまり、いつも家康の近くにいて軍略に携わった、と書かれている。

 信長は横死する直前に武田氏を滅ぼした。そして本能寺の変後、家康は旧武田領に進出し、自身の勢力を大きく拡大した。その際、貢献度がきわめて高かったのが本多正信だった。武田の遺臣に、領地を安堵するから徳川家に仕えるように、と誘いかけ、彼らを徳川家臣団に呼び入れたのだ。

 甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)は武田氏が滅んだのち、まるでまとまっていなかったのに、正信の力で統治しやすくなった。また天正12年(1584)、家康が羽柴秀吉と対立した小牧・長久手の戦いでは、四国の長宗我部氏に出兵を促す書状を正信が書くなど、家康の懐刀としての活躍が伝わる。

 天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従すると、秀吉の推薦で家康の家臣たちも朝廷から叙任され、正信も従五位下、佐渡守になった。裏切り者が、自身の能力によって名実ともに家康の側近の地位を勝ちとったのだ。天正18年(1590)の小田原征伐後、家康が関東に移ると、相模国(神奈川県)玉縄に1万石の領地をあたえられ、ついに大名になった。

家康の将軍就任への道筋も立てた

 正信が出奔しているあいだ、家康のもとで命をかけて戦ってきた家臣たちの多くは、元来が裏切り者の正信が高く評価されることに不満だったと伝わる。だが、それでも家康は正信を高く買い続けた。自身が生き残り、ひいては天下をとるために必要な才能だと見抜いていたからだろう。

 その後は、家康が不在の江戸で町づくりの指示をすべて担い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家の正規軍を率いる秀忠の参謀を務め、関ヶ原で勝利したのちは、家康が征夷大将軍に就任できるように朝廷との交渉に尽力した。さらには、かつて帰依した一向宗本願寺を分裂させ、力を弱めるように家康に策を授けたのも正信だった。家康の信頼が厚くなるはずである。

 慶長8年(1603)に念願かなって征夷大将軍に任ぜられた家康は、わずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自身は大御所として実権を握り続けた。まだ大坂に豊臣秀頼が存在し、いずれ彼が関白になると思っている人が多いなか、将軍職を世襲し、天下を司るのが徳川家であることを示したのだ。

 この時点で秀忠はまだ25歳。家康としては心もとなかったと思われ、もっとも厚く信頼を寄せる家臣を新将軍のもとに送り込んだ。それが正信だった。その後、家康は隠居城としての駿府城(静岡県静岡市)を築き、そこで大御所政治を行ったが、自分は江戸から離れていても、江戸に正信を置いておけば大丈夫だ、という判断があったわけだ。

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