【高橋幸宏さんを偲ぶ】ピーター・バラカンがジャパン・タイムズの追悼記事に驚いた理由

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パイプ役を務めた高橋さん

 年齢の点からYMOのメンバーを見てみると、高橋さんと坂本さんが1952年生まれ。細野さんは1947年生まれで5歳年上だった。

「音楽の作り方に関しては、3人とも対等な関係でした。みんなで仲良くスタジオで馬鹿話をしていることが多かったですね。ただ、幸宏と教授は、細野さんが年上だという意識はあったと思います。よく知られた話ですが、アルバム『BGM』(81年3月)を作っている時、細野さんと教授の関係はあまり良くなかった。しばらくの間、スタジオで2人が一緒にいることはなかったんです。すると幸宏が細野さんと話して、次に教授と話をして、というように、2人のパイプ役になっていました。でも、次の『TECHNODELIC(テクノデリック)』(81年11月)を作る頃は、また和気藹々と3人でやっていました」

 高橋さんの性格として、「偉大なる常識人」、「気配りのできる人」、「温和で優しい」などと紹介した記事も目立った。いわゆる“鬼才”とは全く逆のイメージだ。

「確かに、幸宏がスタッフに当たり散らすようなところは見たことがありません。『高橋幸宏は社会人としてもきちんとしていた』というイメージがあるとすれば、奥さんのサポートも大きかったでしょう。とはいえ、やはり会社員とは違います。例えば、幸宏は財布を持っていないことが結構ありました。ミュージシャンにはそういう人がいるし、特に日本はマネージャーというか付き人が必ずいますから、そういう細かいところの責任を取る必要がないんですね」

アイドル化したYMO

 アルバム「SOLID STATE SURVIVOR」(79年9月)のヒットで、YMOはスターダムに駆け上がった。

 81年には2度目の国内ツアーが成功。82年に坂本さんが大島渚監督(註9)の映画「戦場のメリークリスマス」に出演、その端正なルックスを観客に強く印象づけた。

 YMOとしても「ミュージックフェア」、「オレたちひょうきん族」、「THE MANZAI」(註10)といった人気テレビ番組に積極的に出演。83年にはシングル「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)」も大ヒットし、アイドル的な人気を獲得した。

「あの頃、YMOの3人は、かなり格好つけていました。アイドルでも何でもないんだけれど、アイドル的に受けていることを意識していたと思います。僕がヨロシタミュージックに入社した頃、もう教授は普通に道を歩くことはできませんでした。見つかったらファンが押しかけてしまうからです。だから、どこに行くにしても、必ず運転手つきの車で移動しなければならない。ミュージシャンはちやほやされると、誰でもいい気になってしまうけれど、さすがにそれでは続かない。本人たちも嫌になってくるんですよ」

 83年10月、YMOは「散開」を発表。12月、映画「A Y.M.O. FILM PROPAGANDA」のプロモーション試写会を終えると活動を停止した。

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