“山の神”今井正人が語る、野球をやめて陸上を選んだ「覚醒の時」 夏に強い体質でパリ五輪出場なるか(小林信也)

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 2005年の箱根駅伝、山登りの5区。15位でタスキを受けた順天堂大2年の今井正人が次々に前の走者を抜いて日本中を驚かせた。今井は11人を抜いて4位でゴールした。従来の記録を2分17秒上回る区間新。今井は翌年も5区を快走。6位で走り始めてすぐ4人を抜き、17キロ付近で先頭の山梨学院大を捉えて独走。順大17年ぶり往路優勝の立役者となった。雨の中、「平地のように坂道を走って」今井は再び伝説を打ち立てた。

 さらに4年の年も首位の東海大に4分9秒遅れの5位から猛追。16キロ地点で早くも逆転し往路優勝。3年連続区間賞も達成した。実況アナウンサーが「山の神、ここに降臨」と叫び、今井の代名詞になった。

野球か陸上か

「兄3人の影響で、物心ついた時から野球が大好きでした。低学年のころはまだ野球チームに入れないので、地元のランニングクラブで走っていました」

 小学生ながら普段から4、5キロ走っていた。中学では野球部、高校でも遊撃手で甲子園を目指すつもりだった。転機は中3の秋。「毎晩500球くらいティー打撃をするなど自主練習を欠かさなかったが、福島県大会にも出られなかった。野球はチームが負けると先に行けない。もやもやしていた」

 そんな時、市町村対抗駅伝に町代表で出場。中学生のエース区間で2位になり、県代表に選ばれた。

「全国大会に出て、『陸上って面白いな、やった分だけ結果が出る』、自分の中で感じるものがありました」

 高校で野球を続けるか、陸上に挑戦するか、悩んだ。

 今井が振り返る。

「最後の最後、願書を提出する朝まで高校名は書かず、ひと晩悩んで泣きに泣きまくった。これで人生変わるんだ、という思いがあったし、大好きな野球から離れる生活を想像できなかった」

 甲子園出場経験のある双葉高でなく、陸上の強い原町高の名を書き込んだ時、今井の心は吹っ切れた。

「決心したら後ろを振り向かない猪突猛進の性格です。中3で陸上を選んだ、それが僕の覚醒の時ですね」

 高校では指導者と練習環境に恵まれた。順天堂大出身の畑中良介監督は恩師の沢木啓祐監督譲りのクロスカントリーで体づくりをする指導者だ。相馬野馬追の祭場の傾斜や馬が走る1キロのダートコースで基礎的な筋力を養った。

 世界ユース陸上や世界クロカン(ジュニア)代表に選ばれるなど着実に成長した今井は順大に進んだ。

 2度目の覚醒は大学1年夏、北海道の士別合宿の時だ。

「1年生3人で走っていると、後ろから電気自動車で来た沢木先生が追い越し際に『お前は5区だ』と言ったんです。誰に言ったのか、その時はわからなかった」

 沢木は一瞬で今井の才能を見抜いた。1年の箱根は2区を走った。終盤の上りを軽快に走る姿で翌年の5区抜てきが決まったともいわれている。

「5区と言われたのは2年の夏過ぎでした。上りに苦手意識はなかった。適性があるとも思わなかった……」

 千葉県印西市(旧印旛郡印旛村)にあるキャンパス周辺の坂道でひたすら箱根をイメージして走った。

「5区の最後には、差がつきやすい下りがある。その切り替えの練習も繰り返しました。トラック練習でも、低重心で淡々と地面を押し気味に走る。脚の運びもトラックにしては遅い、だけどタイムは悪くない感じで」

 山の神と異名を取った快走は、周到に準備された走法改革の成果だった。

「僕の場合は上りの走りを意識しすぎると過剰に前傾になる。できるだけ平坦を意識して、それをいけるところまで維持して走る」

 強運も味方した。勝負所は上りのきつい旧小涌園を過ぎて左に曲がった後。長い直線で、かなり先をいく走者まで見通せる。

「2年の時は(先行選手が)等間隔でいたから気持ちが切れずにいけた。3年の時は山梨学院、4年の時は東海大、トップの背中がそこで見えた。きついなと思うタイミングでもう一度スイッチを入れることができた」

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