アントニオ猪木さんが語った「追想の七番勝負」 「アンドレはクレバーな男 仲間におごるのが大好きな親分肌だった」

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 プロレス……の4文字に抱く思いはそれぞれだろう。まったく関心がない人もいれば、「野蛮な見世物」と顔をしかめる向きもあろう。一方では人生に大きな影響を受けたり、何十年もファンでい続ける人もいる。なにより確かなのは、昭和の時代にとてつもない観客動員数や視聴率を誇っていたこと。そんな「昭和プロレス」の主人公として中心に立ち続け、常に話題を振りまいてきた男が、昨年10月に亡くなったアントニオ猪木さん(享年79)である。(「週刊新潮」2020年1月27日号掲載)

「確かにプロレスってジャンルは人気があったと思いますよ。試合中継が視聴率で巨人戦を上回ったこともあったし、私も長嶋(茂雄)さんに擬(なぞら)えられたりしたこともありましたが、“なにを! こちとらだってアントニオ猪木だぞ!!”って気概でやってましたからね」

 蔵前国技館や日本武道館といった当時最大クラスの会場を何十回も超満員の観客で埋め尽くし、テレビ朝日による試合中継の視聴率は平均で20%前後、試合によっては30%を超えることもあった。そこで約20年間も“主演”を務めてきただけに、当然の自負だろう。

 そして2019年の現在。76歳となった猪木は、昭和をかけぬけた自らの時代を、数々のライバルたちとの闘いの記憶を、現在の肉体と脳裡にどう刻み込んでいるのだろうか。さまざまな闘いに明け暮れた半生を、大いに語ってもらった──。

宿命の二人との出会い

 猪木寛至(本名)は、1943年横浜生まれの純然たる日本人だが、中学生の時に一家でブラジルに移住。過酷な労働を続けるなかで、現地へ遠征に来た力道山にスカウトされたのは、あまりにも有名なエピソードだ。

 60年春に帰国し、力道山の設立した「日本プロレス」に入門。新弟子の猪木を待っていたのは暴君・力道山による常軌を逸した〈かわいがり〉だった。理由もなく殴られるのは日常茶飯事。一升瓶の日本酒を一気飲みさせられたり、太平洋上で同乗したクルーザーから降ろされて、岸まで2時間以上を泳いだこともあった。

「まぁ今だったら、毎日がワイドショーのネタになりますよ。でも当時はパワハラなんて言葉もないしねぇ……。殴られるのが当たり前だったし、力道山は〈神〉ですから、逆らうなんて発想もない。彼の中にある民族的な鬱屈(力道山は北朝鮮出身)のことも、当時はまったく知りませんでしたしね」

「でもねぇ……私もだんだん色気付いてきて、人目が気になる年齢なわけですよ。そんなとき、ある地方の旅館で力道山に靴を履かせたところ、歩き出すとき少しつっかかった。そしたら、“お前の履かせ方が悪いっ”と靴ベラで横っ面を思いっ切り引っぱたかれた。旅館の周りには、力道山をひとめ見ようと、100人くらいの人だかりがあったから、痛いやら恥ずかしいやらで……あの時は“(プロレスを)辞めようかな”と思いましたよね」

 そんな「力道山の付き人」生活と並行しつつも、晴れてプロレスラーとしてのデビューも迎えた。60年9月30日、東京・台東区体育館。隣には、身長191センチの猪木をさらに上回る巨体の男が立っていた。馬場正平……のちのジャイアント馬場だった。

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