アントニオ猪木さんが語った「追想の七番勝負」 「アンドレはクレバーな男 仲間におごるのが大好きな親分肌だった」

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VSジャイアント馬場

「最初は対抗心も、ライバルなんて気持ちもなかったですよ。私が17歳で向こうが22歳。この年頃の5歳差はでかいです。しかも馬場さんは社会人(プロ野球選手)を経験してから来ているから、兄貴分って感じの存在でした。実際にジャケットをもらったりしましたよ。あの人のですから、大きすぎて着られないんだけれどね(笑)」

 そんな新弟子時代のいい関係も力道山が非業の死を遂げ、次代を担うのが馬場と猪木であることが誰の目にも明らかになる頃には、必然的にお互いを意識するようになっていった。

「周囲がね、やはり〈馬場派〉、〈猪木派〉に分かれてくるんですよ。その中で馬場さんより上に行きたいって気持ちも芽生えてくる。当時は(前座クラスを脱すると)同門同士は対戦できなかったので、必然的に同じ外国人レスラー相手の試合内容なんかで、張り合おうとしましたね」

「その後の長い間には……本当にいろんなことがありましたが、今は馬場さんを否定する気は全然ないんですよ。ただプロレスに対する考え方がやっぱり違うので、“馬場さんがそういうプロレスをやるのなら、俺は違うことをやろう”って、反面教師とでもいうか……自分の道を見つける手助けにはなったかなって」

 父であり師である力道山、兄であり生涯のライバルであるジャイアント馬場。宿命の二人との邂逅は、さしずめアントニオ猪木にとっての黎明期か──。

ライバルと名勝負と事件

 やがて猪木が押しも押されもせぬメインイベンターとなってからは、数々の名レスラーたちとの激闘が続いていく。

VSドリー・ファンク・ジュニア

 昔も今も、猪木に「自身で選ぶベストマッチは?」と尋ねると、必ず挙げるのがドリーとの試合だ。

「ドリーとはほぼ同世代ですけどね、彼が先に世界チャンピオンになった。スマートな闘いぶりがカッコ良くてねぇ。憧れでしたね。ドリーとは、持てる力を出し尽くす試合ができました」

 当時の最高峰と呼ばれたNWA世界ヘビー級チャンピオンとしてドリーが初来日したのが、69年。猪木と馬場が連続挑戦し、ともにドローで王座奪取はならなかった。が、内容で高く評価されたのはフルタイム60分間を動き続け、あらゆる技を駆使しあった猪木vsドリー戦の方だった。

 このドリーらとの闘いを最後に、力道山が創設した日本プロレスは猪木の「新日本プロレス」と、馬場の「全日本プロレス」に分裂。本格的な猪木・馬場の対立時代に突入していく。そしてレスラーとしての猪木は、全盛期を迎えていた。

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