アントニオ猪木さんが語った「追想の七番勝負」 「アンドレはクレバーな男 仲間におごるのが大好きな親分肌だった」

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VSモハメッド・アリ

 見た方はご記憶だろうが、両者の思惑の差、ルールの不整備もあって、試合は寝転がった猪木がアリの足を蹴り続ける展開に終始した。

 しかし終わって何十年と経っても、これほど何度も語られ、エピソードが掘り起こされ、その度に評価が二転三転していった試合も珍しい。「世紀の凡戦・呆れた茶番劇」から「緊迫感あふれる真剣勝負」までの間を揺れ動く、76年6月26日、猪木一世一代の大勝負だった。

「アリが単なるボクサーじゃないこと……ベトナム戦争への徴兵を拒否し、黒人差別と闘い続けていたのは最初、知りませんでしたね。彼と関わっていく中で徐々に分かってきましたけど」

「あの試合の内容に関しては、翌日から世界中のほとんどのマスコミに酷評されたんですけど……それより何より、アリ本人が“あれ(猪木戦)は単なるお遊びさ”ってコメントしたのが、一番堪(こた)えましたね。“おいおい、そりゃあないだろうよ”って……。その後アリに何度も会って、“いやイノキ、実は俺は怖かった”とか、“ああいう結果(引き分け)で良かったよな”という言葉を聞けて救われましたけどね」

 猪木の代名詞ともいうべき入場テーマ曲「炎のファイター」は、そもそもアリの自伝映画の挿入歌。これを譲り受けたり、アリの結婚式に呼ばれたりと交流は続いた。

 そして95年、北朝鮮でのプロレス興行にゲストとして引っ張り出した時は、久しぶりに姿を現したアリに世界が驚いた。

「アメリカ政府の反対とか、すべてを振り切って参加してくれましたから。パーキンソン病でヨタヨタしていたアリが、カメラのフラッシュを浴びてどんどん元気になっていくのを見て、スターの性(さが)ってものを感じましたねぇ」

「私にしても、最初は酷評されたものの、〈アリと闘ったアントニオ猪木〉っていう看板は、狭いプロレス界だけでなく世界の隅々まで通じるものでした。キューバに行ってカストロ議長に会う時にも役に立ったし、アリ戦はやって良かったと思いますよ」

人生とは終わりなき闘い

 そして新日本プロレスは、業界の盟主となっていた。

「私が力道山から受け継いだものがあるとしたら、〈怒り〉だと思うんですよ。周囲への怒り、時代への怒り……。例えばアメリカのプロレスっていうのは純然たるエンターテインメントで、生き方を表現するようなものじゃない。私は怒りや生の感情、自分の哲学や人生を闘いで表現してきたつもり。続く誰かにこういう部分を継承してもらいたかったけど、無理でしたねぇ。まぁ若い連中にしてみたら、“何を勝手なこと言ってやがるんだよ、猪木の野郎”と思うかもしれないけどね(笑)」

 猪木は昭和と共にプロレスの一線から退き(完全引退は98年)、同時に政治家としての活動を開始。イラク人質解放や独自の北朝鮮外交などの成果を上げる一方で、さまざまな疑惑やスキャンダルにも見舞われた。ここでも猪木には栄光と挫折、称賛と批判が同時について回ったのだ。

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