石原裕次郎の最後の言葉、一晩3400万円のギャラだった歌手は? 「ニューラテンクォーター」元社長が明かす知られざる舞台裏

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勝新と“五分の兄弟”に

生島 山本さんはさまざまな芸能人と、店の社長と客という関係以上に、親しくお付き合いされていますね。

山本 何といっても思い出されるのは、勝新太郎さんですよ。知り合ったのは、開店翌年の昭和35年ごろです。ちょうど彼がスターへの階段に足をかけた頃で、それ以降、彼が階段を駆け昇っていく様子を、すぐそばで見てきました。意気投合して“五分の兄弟分”になったほどです。

生島 同じくらいの世代ですか。

山本 勝さんが四つ上です。勝さんには忘れられないエピソードがあります。昭和52年ごろ、勝さんは日本企業がイランに建設している石油コンビナートにナイトクラブを出店しようと持ちかけてきたんです。石油施設には駐在員が何千人もいる、でも砂漠の中で女っ気がない。だから「兄弟、こんな儲け話はない。商社の重役からの確かな話なんだ。作っちまえば後は黙っててもザックザック金が入ってくる。当分は安心して映画が撮れる。勝プロも安泰だ!」と、勝さんは乗り気も乗り気でした。それで私は下調べに現地を訪れ、ホステスのオーディションでフィリピンにまで足を延ばしました。でも、イラン革命が起きて話はすべてオジャン。勝さんの壮大な映画製作の夢もついえてしまったんです。さすがの勝さんも、がっかりしていましたね。

生島 勝さんらしい豪快な話ですね。

山本 勝さんはアイデアマンで、私の店でも祇園の舞妓さんによるショー「舞妓の休日」をプロデュースし、こちらは大成功でした。舞妓さんは普段、祇園界隈のお座敷にしか出ないのですが、勝さんの力で東京でのショーが実現した。マスコミにも大きく取り上げられ、とくに外国の方に大好評でした。勝さんがいなかったら、あんなに楽しく店をやっていられなかったと思うし、私の人生はもっと味気なくなっていたでしょうね。

生島 いい関係だったのですね。

勝新が唯一認めた俳優

山本 その勝さんが唯一認めていた俳優が、石原裕次郎さんでした。

生島 裕次郎さんも店の常連ですね。

山本 勝さんと裕次郎さんは大変に仲がよく、二人で来店することも多かった。勝さんはよく「裕ちゃんにだけはかなわない。演技とか芝居とか関係ないんだ。あいつは素のままでいいんだ。それが本当のスターなんだよ」と言っていました。

生島 へぇ、勝さんは裕次郎さんをそんなふうに見ていたんですか。

山本 よく覚えているのは、裕次郎さんが最後に来店された時のことです。その日、店では勝新太郎54歳の誕生パーティーと、昔の主演映画「人斬り」の上映がありました。そこに松田優作もいました。裕次郎さんはやって来るなり、「信ちゃん、酔っ払う前に、まず三人で乾杯しないか」と言いました。病み上がりであまり長居ができない裕次郎さんは、まず勝さんと乾杯したかったのです。店の応接室で、三人でブルゴーニュのワインを飲みました。勝さんが裕次郎さんの体を気遣って、「裕ちゃんを早く帰してくれよ」と私の耳元でささやいたので、パーティーの途中、頃合いを見計らって裕次郎さんを店の外に送り出した。赤坂の街には薄く夜霧が立ち込めていて、裕次郎さんは「ああ、外の空気はうめえなあ」と呟きました。そのセリフと仕草は、若い頃にスクリーンで見た裕次郎さんそのものでした。そしてそれが、私の聞いた裕次郎さんの最後の言葉になったんです。

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