「伝統」と「愛国」はしばしば対立する 岸田首相を奇妙な理由で糾弾した愛国者たち(古市憲寿)

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 11月23日の夜、カタールでサッカー・ワールドカップのドイツ対日本戦が行われた。日本時間の夜10時にキックオフ、テレビの瞬間最高視聴率は試合終了時、午後11時59分の40.6%だったという。

 試合のハーフタイムにあたる午後11時01分に岸田首相は、ツイッターに以下のような投稿をした。「宮中に参内し、新嘗祭神嘉殿の儀に参列いたしました。厳かな空気の中、五穀豊穣に感謝の念を捧げるとともに、皇室の弥栄と国家の安寧をお祈りいたしました」。

 例年の11月23日であれば、特段反応などなかっただろう。だがこの投稿に一部の人がかみついた。そんな投稿はいいからワールドカップを観ろというのだ。

 興味深い現象だと思った。ワールドカップで日本を応援し、それに無関心な人を糾弾するのは、広い意味では「愛国心」の発露といえるだろう。だがその「愛国心」ゆえに、新嘗祭という「伝統行事」に参列した首相を批判する。

 一般に、愛国者は伝統を重視すると思われがちだが、現実には違うらしい。実は似たことが、アジア太平洋戦争の時にも起きていた。

 戦争末期、根こそぎ動員によって、日本中が労働力不足に陥った。そこで注目されたのが女性たちである。運動家の市川房枝は、女性の勤労動員の強化が国家のために不可欠だと訴えた。政府側は「日本古来の婦道に反する」「家族制度を破壊する」と女子徴用に否定的だったが、市川たち運動家はノリノリだった。「婦人の力を如何にして最高度に戦力化するのか」を考察した政府提言などを起草している(進藤久美子『市川房枝と「大東亜戦争」』)。

 国家が総力を結集して戦いに勝とうとするのか、それとも伝統の方が重要なのか。愛国か伝統かはしばしば対立する。事実、ネット上には新嘗祭に参列した首相を擁護するコメントも多く見られた。新嘗祭という「伝統」の擁護者は、ワールドカップに浮き立つ「愛国者」に眉をひそめるのだ。

 ただし現在の新嘗祭が「伝統」という言葉にふさわしいかは別問題だろう。新嘗祭や大嘗祭は、7世紀末の天武・持統朝の時期に整備され、奈良・平安時代を通して形式化が進んでいった。だがその源流は縄文・弥生時代まで遡れるともいわれる(工藤隆『大嘗祭』)。

 特に、古代においては性的な儀礼があったと考える研究者もいる。服従の誓いとして、酒や供え物の他に、采女(うねめ)が天皇と共寝する儀式があったのではないかというのだ。儀式の内容が公開されていないので詳細は不明だが、現在の新嘗祭に性的な要素が残っているとは考えにくい。そもそも東国において新暦で行われる時点で、伝統主義者からすればたまったものではないだろう。時代と共に「伝統」と見なされているものは、変幻自在に姿を変える。

 千年後には、サッカーが伝統芸能になっているかもしれない。その時に流行している新しい遊びに浮かれる人に対して、未来のサッカーファンは眉をひそめているのだろうか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年12月15日号掲載

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