「領土最大化」に「大航海」――中国史に名を残す「明の永楽帝」が膨張主義に走った本当の理由

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 習近平率いる中国の膨張主義が、周辺国に脅威を与えている。なぜ中国はそこまでして領土や勢力圏の拡大にこだわるのだろうか。

 京都府立大学教授の岡本隆司さんは、「対外拡張に熱心だった明の永楽帝が、ひとつの参考になるかもしれません」と語る。岡本さんの著書『悪党たちの中華帝国』から、一部を再編集して永楽帝の事蹟を紹介しよう。

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 明朝の皇帝なんて、現代の日本人は、ほとんど誰も知るまい。そのなかでも永楽帝といえば、まだしも聞いたことのある、字面に見おぼえのある人物ではないだろうか。

 その治世のシンボルだった「永楽銭」=永楽通宝(つうほう)が、日本に入ってきて、スタンダードな鋳貨のデザインになり、たとえば名だたる戦国武将が旗印に使ったためであろう。だから「永楽」といっても、永楽帝本人あるいはその事蹟とはあまり関わってこない。現在は京都に、その永楽銭をロゴに使った「永楽屋」という老舗(しにせ)がある。お店の人に永楽帝のことを訊いても、まさか教えてくれるとは思えない。

 永楽帝は、甥である明朝第2代皇帝の建文帝(けんぶんてい)を倒した「靖難(せいなん)の変」によって、帝位・政権を簒奪(さんだつ)した人物である。そのため何より正統のアピールが第一、永楽帝は自分こそ、父帝・朱元璋(しゅげんしょう)の後を正しく継いだ、適任者だったのだと強調した。即位以前から、すぐれた資質・事蹟を示すエピソード・記録がいまも残っているのは、そのためである。

 だからそんな記事は、鵜呑みにできない。永楽帝を評価するには、むしろ事績を客観的に検討してやるほうが適切である。体制の理念・政策の方針・政治の手法など、明朝・中国そのものをどう導くのか、そうした歴史的文脈からすれば、永楽帝は本人が自覚していたかどうかは別にして、正しく父帝の後継者だった。プロパガンダどおりであって、歴史を潤色(じゅんしょく)したり、建文帝の治世を記録上抹殺したりするなど、蛇足の作為というべきである。

父帝とそっくりな政治手法

 朱元璋は江南から出て政権を建てたものの、南方人のみの政権のままでは中国全土を直接に治めることができない、と認識して、その脱却・克服を終生の課題とした。功臣・重臣を数多く疑獄事件で処刑したのも、北方に首都を遷そうとしたのもそのためであって、自ら建てた政権のいわば構造的な矛盾である。

 その矛盾はついに克服できなかった。朱元璋の後に南方人政権の特徴が顕著な建文政権が発足したからである。そう考えれば、「靖難の変」は明朝政権の構造矛盾を強行突破した事件だった。

 朱元璋が望んで果たさなかった、北から南を支配する政体樹立が、はからずも息子の叛逆・簒奪によって実現したのである。朱元璋の立場からいえば、自身がめざしていた針路から逸脱した政権が、ようやく正しい軌道に修正された。「靖難の変」はこうした点、14世紀の洪武時代と15世紀以降の明朝を一本につなぐ歴史的な意義を有した事件なのである。

 方孝孺(ほうこうじゅ)ら建文帝の重臣たちに対する虐殺も同じく、その典型例だといってよい。いっそうストレートに南方人の存在を否定した行為だから、朱元璋の疑獄事件・連座処刑の再現であった。「瓜蔓抄(蔓(つる)まくり)」と呼ばれた永楽帝の類縁者皆殺しも、やり口がそっくり、父子というのはやはりよく似るものである。

 だとすれば、いまひとつ朱元璋の果たせなかった遷都事業は、どうだったのか。南京に安住できない点、やはり父子共通した事情ではある。永楽帝の場合は、つとに防衛の中心であり、なおかつ燕王・永楽帝じしんが本拠にしてきた北平を選ぶのが、やはり客観的に自然であり、また主観的にも当然だった。以後、北平は「北京」と改称し、今に至っている。

「鄭和の大航海」と「モンゴル遠征」

 以上のように、永楽帝は父帝の後継として、正統の建文帝以上に忠実だった。北から南の支配という体制の大枠のみならず、具体的な制度・政策もおおむね踏襲している。

 ところが永楽帝は、朱元璋の施政方針を変えた、というのがむしろ一般的な世評ではないだろうか。それはひとえに対外的な姿勢が洪武年間と大いに変わって、積極策を貫いたように映るからである。

 モンゴルに対する攻撃、ベトナムの併呑・内地化などを通じ、明朝の版図を最大限にまでおしひろめた。そうした帝の政策は北京遷都と合わせて、クビライへの「回帰」だった、モンゴル帝国のような東アジアの統合をめざしたともいわれてきた。

 たとえば鄭和(ていわ)の遠征を考えてみよう。中国史上めずらしい政府の海洋進出として、とても名高い。東南アジアからインド洋を経て、アラビア半島・アフリカ沿岸までいたった、合計7回にもわたる大航海だった。朱元璋の閉鎖的な姿勢とは、まったく逆行する事業にもみえる。

 永楽帝の宦官・鄭和はムスリムで、かれが遠征をくりかえした航路は、モンゴル帝国時代にムスリムがさかんに往来したインド洋の海路と、当然ながら一致する。モンゴル帝国はムスリムが築いたインド洋沿岸路、航海路を利用して、海洋展開をおこなっていたわけで、鄭和の遠征は基本的にそれを踏襲したものだった。

 なるほど積極的ではあって、モンゴルを継いだ側面もある。しかしたんに「回帰」とみるばかりでは、やはり腑に落ちない。その目的を端的にいえば、朝貢の勧誘であった。朝貢とは「外夷」・外国が貢ぎ物をもって挨拶にくることで、頭を下げれば君臣関係が成立する。朱元璋はこの儀礼行為で対外関係を一本化し、明朝を中心・至上とする秩序を東アジア全域に布こうとした。そのため「朝貢一元体制」と呼ぶ。鄭和の遠征も対外的な秩序を確立し強化するため、大船団の示威によって明朝への朝貢をうながしたものである。それなら朱元璋がデザインした「朝貢一元体制」と背反しない。

 モンゴル方面も同じ構図である。永楽帝は叛服常ないモンゴルに対する威権(いけん)を確立するため、たびたび親征を敢行した。北辺の安全保障のみならず、対外秩序の確立、完成をめざしていたのであり、簒奪者の負い目のある永楽帝には、ぜひ必要なことである。積極と消極という姿勢は正反対ではあれ、朱元璋の企図に違(たが)ってはいない。

トラウマ克服と対外進出

 永楽帝は主観としては、あくまで父帝の忠実な後継者たらんとした。しかも即位の特殊事情、簒奪のトラウマをも克服しなくてはならない。そのため父帝の方針・体制の継承をいっそう徹底させ、かつまたアピールする必要がある。それをおしすすめた結果、朱元璋本人は忌避していた対外的な武力行使や海上進出が避けられなかった。モンゴル・クビライを模範に「回帰」する、という単純な企図・図式でもなかったのが実情なのであろう。

 朱元璋がモンゴル帝国を否定してデザインしたはずの体制をつきつめると、モンゴルに「回帰」する行為になってしまったというべきか。だとすれば、朱元璋のデザイン自体が矛盾を孕(はら)んでいて、それが永楽帝において積極策、ないし膨張主義としてあらわれたともいえる。

 帝は決して頑健な体質ではなく、宿痾(しゅくあ)に悩まされていた。それでも取り憑かれたように、モンゴル親征をくりかえした。五たび漠北(ばくほく)の草原に出撃し、三たび遊牧民の本拠を襲撃した「五出三犂(ごしゅつさんれい)」という英雄的な事業として語られるものの、モンゴルの脅威は去らなかったから、さしたる戦果をあげたわけではない。

 そして5度目の親征中、1424年に内蒙古の楡木川(ゆぼくせん)という地で崩じた。享年65。父帝のつくった明朝という体制の継承、帝位の簒奪という自らかかえたトラウマ・矛盾から生じた無理が祟った最期であったともいえる。

『悪党たちの中華帝国』より一部を再編集。

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