48万部『応仁の乱』著者が「鎌倉殿の13人」クライマックスの楽しみ方を解説 北条政子の政治センス、義時の“気弱エピソード”

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“気弱エピソード”は出てくる?

 ドラマでは、「闇落ち」ぶりがすっかり板についている義時だが、これらの“気弱な”エピソードは出てくるのだろうか。気になるところである。

 前述の北条政子の演説によって御家人たちは結束した。5月22日の早朝、北条泰時がわずか18騎を率いて、京都に向けて進発する。率先して出陣することで、上皇への反逆に尻込みする御家人たちを鼓舞しようとしたのである。

「吾妻鏡」によれば、22日から25日にかけて御家人たちは順次出撃した。最終的に幕府軍は東海道軍10万、東山道軍5万、北陸道軍4万の総勢19万騎に膨れ上がったという。

 数に勝る幕府軍は勝利を重ね、京都へ迫りつつあった。6月12日、後鳥羽上皇は軍勢を各地に派遣し、守りを固めた。特に重視したのは宇治・瀬田方面の防衛である。交通の要衝である両所は京都防衛の要でもあった。

勝敗が決した瞬間

 承久の乱最大の激戦である宇治川合戦は、承久3年6月13・14日に行われた。北条泰時は、栗子山(現在の宇治市西南部にある栗隈山)に布陣した。13日、足利義氏・三浦泰村は泰時に無断で宇治橋に向かい、橋を渡ろうとするが、京方(後鳥羽方)の猛烈な射撃によって甚大な被害を出し、宇治平等院に撤退した。

 足利義氏の援軍要請を受けた泰時は急ぎ宇治に向かったが、その間にも宇治で合戦が行われ、幕府方の24人が負傷した。泰時は使者を派遣して橋上の合戦を停止させ、自身は平等院に入った。

 翌14日、泰時は渡河作戦を決断し、芝田兼義に浅瀬の場所を調べるよう命じた。兼義は、宇治川の伏見津瀬を渡ろうとし、佐々木信綱らがこれに従った。京方は渡河を阻止するために矢を放ち、兼義らはくぎ付けになった。

 佐々木信綱は宇治川の中にある中島に何とかたどり着いたが、後続の武士が渡河できずにいるのを見て、子息重綱を泰時の陣に派遣して、加勢を求めた。

 泰時は嫡男の時氏を呼び、「このままでは敗北する。そちは命懸けで渡河せよ」と命じた。時氏、三浦泰村らは家人を率いて渡河した。さらに泰時は自らも渡河しようとした。春日貞幸が制止するも、泰時の意思は固かった。そこで貞幸は一計を案じ、「甲冑(かっちゅう)を着たまま川を渡ろうとした武士はほとんど水没しています。よろいをお脱ぎになるべきです」と進言した。泰時は田の畝に降りてよろいを脱いだが、その間に貞幸が泰時の乗馬を隠してしまったので、泰時は渡河を断念した。

 北条時氏・佐々木信綱・芝田兼義らは対岸に渡ることに成功し、京方と激戦を繰り広げた。さらに泰時も民屋を壊して造った筏で渡河した。総大将の泰時が前線に進出したことで幕府軍の士気は高揚し、ここに勝敗は決した。

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