48万部『応仁の乱』著者が「鎌倉殿の13人」クライマックスの楽しみ方を解説 北条政子の政治センス、義時の“気弱エピソード”

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涙を流しながら義時が語った言葉

 後鳥羽上皇の挙兵を知って鎌倉は騒然となった。朝敵に認定された義時は、自分の運命はもはやこれまで、と絶望したが、「朝廷の討伐命令といっても、上皇自らが軍を率いられるわけではないのだから、運を天に任せて戦おう」と思い直した。

 義時は長男の泰時を上洛軍の総大将に任命し、出陣の際に涙を流しながら語りかけた。「おまえをこのたび上洛させることには、いろいろと思うところがある。潔く戦死して、武士の本懐を遂げよ。敵に背中を見せるようなひきょうなまねをしたら、親子の縁を切る。今が親子の別れの時、二度と会うことはないものと思え。身分こそ低いが、この義時、上皇に対して後ろめたいところなど少しもない。だから私が滅ぶはずはない。戦いに勝つまでは足柄・箱根の関を越えて東国に戻ってきてはならん」と。泰時は「父上のおっしゃる通りだ。再び父上のお目にかかれるだろうか」と思って泣いた。

 こうして幕府軍が出発した翌日、意外なことに、泰時がただ一騎、鞭をあげて戻ってきた。胸騒ぎがした義時は「どうしたのだ」と問うた。すると泰時は次のように答えた。「戦略、軍法については父上の仰せをうかがい、よく分かりました。ですが、もし上洛の途上で、思いもかけず、上皇がみこしに乗って、錦の御旗を掲げて、自ら出陣なさってくるのに遭遇した場合にはいかがいたしましょうか。この一事をお尋ね申し上げようと思い、一人ではせ戻ってきたのです」と。

 義時はしばらく思案してから、「よくぞ尋ねてくれた。そのことよ。いくら朝敵と言われていようと、文字通り上皇のみこしに弓を引くことはできない。その時には兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひたすら恭順の意を示して、上皇の御命令に従うのだ。そうではなくて、上皇は京都にいらっしゃって、討伐軍を派遣されるだけならば、命を捨てる覚悟で、千人の軍勢が一人になっても戦いを続けよ」と返答した。義時の言葉が終わらぬうちに、泰時は急いで出立したという。

迷いを抱えていた義時

 ただし文学・歴史学界では、上に見える義時と泰時のやりとりは創作ではないかと考えられている。とはいえ、義時に恐れがなかったわけではなかった。「吾妻鏡」は次のような話を載せている。

 義時邸の建物の一つに雷が落ち、一人の人夫が亡くなった。義時は「朝廷に逆らおうとしたら、このような怪異が起きた。滅亡の前兆ではないか」と不安に感じた。これに対し大江広元は、「頼朝公が奥州に出陣した時にも落雷がありましたから、むしろ良い結果の前ぶれでしょう」と励ましたという。

 この逸話も後世に創作されたのかもしれないが、北条氏の立場から編纂された「吾妻鏡」が義時を英雄視していない点は興味深い。一定の事実を反映しているからこそ、上の記事が収録されたのだろう。すなわち、義時には勝利の確信はなかった。迷いや悩みを抱えながら、吉報を待っていたのである。

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