48万部『応仁の乱』著者が「鎌倉殿の13人」クライマックスの楽しみ方を解説 北条政子の政治センス、義時の“気弱エピソード”

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政子が使ったトリック

 ただ、政子の演説には一種のトリックがある。本来、御恩と奉公の関係とは、鎌倉殿と御家人という個人対個人の関係を指していた。そうすると、源氏将軍が断絶した時点で、御恩と奉公の関係は消滅してしまうことになる。頼朝の遠縁にすぎない幼児三寅は御家人たちの忠誠の対象として、あまりに軽すぎる。

 前田家本「承久記」によれば、後鳥羽上皇の近臣・藤原秀康から「なぜ鎌倉を離れて京都で朝廷に奉公しているのか」と尋ねられた有力御家人の三浦胤義は、「頼朝・頼家・実朝3代の将軍を失ってからは、鎌倉には自分の主として仰ぐ人はいなくなったからだ」と答えたという。胤義から見れば、三寅は北条氏が仕立てた傀儡(かいらい)にすぎない。本来は同格の御家人であるはずの北条氏に屈服することは、胤義には耐えられるものではなかった。

 三寅を正統な鎌倉殿と認めない御家人は胤義だけではなかっただろう。だからこそ後鳥羽院は、源氏将軍の断絶を挙兵の好機と認識したのである。

卓越した政治センス

 これに対し、鎌倉殿頼朝から受けた御恩を「鎌倉殿に返す」という論理を使えない政子は、代わりに頼朝から受けた御恩を「幕府に返す」よう主張した。政子は、特定個人への奉公を組織への奉公にすりかえた。専門的に言えば、もともとは人格的結合だった御恩と奉公の関係を、制度的結合に変えたのである。ここに政子の卓越した政治センスが見てとれる。

 このあたりの機微がドラマではどう表現されるのか、注目である。

 ところで、後鳥羽上皇に討伐の対象として名指しされた北条義時は、朝廷に逆らう「朝敵」になることを恐れてはいなかったのだろうか。歴史物語「増鏡」は、幕府軍出撃の経過について、興味深い逸話を載せている。以下に示そう。

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