48万部『応仁の乱』著者が「鎌倉殿の13人」クライマックスの楽しみ方を解説 北条政子の政治センス、義時の“気弱エピソード”

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北条氏が幕府の実権を

 そこで北条義時・政子らは後鳥羽上皇の皇子を新たな鎌倉殿に迎え入れようと考えたが、実朝暗殺を防げなかった幕府に不信感を持った後鳥羽に拒否された。やむなく幕府は、頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の三寅(みとら)(のちの第4代将軍藤原頼経)を実朝の後継者として鎌倉に招いた。

 しかし三寅は当時わずか2歳の幼児だったこともあり、すぐには将軍になれなかった。鎌倉幕府はしばらく将軍不在の異常な状態を余儀なくされ、三寅の後見役である北条政子が「尼将軍」、すなわち事実上の鎌倉殿として力をふるうことになったのである。

 源氏将軍の断絶と三寅擁立によって、北条氏が幕府の実権を握る体制が明白になった。後鳥羽は義時追討令の中で義時を「幕府を好き勝手に支配し、朝廷を軽んじる」と激しく非難した。この文言も、北条氏に対する御家人の怒りをあおる作戦だったと考えられよう。

北条政子の“名演説”

 さて「吾妻鏡」などの歴史書によれば、後鳥羽の北条義時追討令を知って動揺する御家人たちを前に、北条政子は演説を行ったという。「吾妻鏡」所収の演説を以下に訳す。政子が御家人たちを御簾(みす)の前に招き、安達景盛を通じて語った。「皆、心を一つにして聞きなさい、これが私の最後の言葉です。亡き頼朝公が朝敵(平家)を征伐し、鎌倉幕府を開いてから、官位にせよ俸禄にせよ、御家人に与えた御恩は、すでに山よりも高く海よりも深いものです。恩に報いようというあなたたち御家人の気持ちがどうして浅いことがあるでしょうか。ところが今、奸臣の讒言(ざんげん)によって後鳥羽上皇が、誤った命令を出されました。名誉を重んじる御家人は、早く藤原秀康・三浦胤義(たねよし)たちを討ち取り、3代にわたる将軍が残してくださった幕府を守るべきです。ただし上皇に味方したいと思う者は、今ここで申し出なさい」と。

 すると集まった御家人たちは皆、政子の命に応じ、感動の涙があふれでて、まともに返事をすることができないほどだった――。

 政子は、頼朝の御恩に報いるために今こそ戦え、と主張した。鎌倉幕府に絶体絶命の危機が訪れた時に、武士社会を支える原理である“御恩と奉公”を持ち出すことで、武士たちの心をつかんだのである。頼朝の死後、将軍家の後家として幕府を守り続けてきた政子の言葉には格別の重みがあった。

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