崔洋一監督が語っていた松田優作さんとの交流 探偵物語で「てめぇ、この野郎!」と激怒され

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似た者同士の優作さんと崔監督

 その後も優作さんと崔監督は親しく交際した。

「2人の家がすぐ近所だったこともあるんですよ。お互いの家を行き来し、食事などをしながら、映画や演技の話をしていた。いつも長話になっちゃって」(崔監督)

 優作さんはスタッフや共演者の仕事に厳しい人だったことで知られるが、自分にも厳格だった。映画「野獣死すべし」(1980年)の撮影入り前には、主人公・伊達邦彦を演じる役づくりのため、10kg以上減量した。

 さらに頬がこけて見えるように上下4本の奥歯を抜いてしまった。それでも満足せず、脚本を書いた丸山昇一氏(74)に「自分の身長が高すぎる(185cm)。足を5cmくらい削りたい」と相談した。

 一方、崔監督は温和な人柄だったが、仕事にはやはり厳しく、妥協を許さなかった。例えば便利で安上がりということもあり、映画もデジタルカメラで撮影されてビデオなどに収められる時代になっても、崔監督は「映画ですから」と、フィルムに拘り続けた。デジタルへの移行に異を唱えていた。

 優作さんと崔監督は似た者同士だったのだろう。ただし、監督と俳優として組んだのは「断線」の1度だけ。優作さんが早世したこともあるが、崔監督は「(波長が)合いすぎるのは(作品づくりに)良くないと思われたのかもしれないね」と語っていた。

 崔監督は優作さんが愛され続ける理由をこう分析していた。

「異形だからですよ。ちょっと普通と違うんだ。ノーマルじゃない。日本のオーソドックスな名優たちは生真面目で熟成度が高くて、人品卑しからぬ方々ですが、優作はそうじゃない。冒険者だったと思いますね。だから忘れられない」(崔監督)

 崔監督は無意識でそう口にしたのだろうが、その優作さん論は監督自身の姿と重なり合った。

 学歴エリートの多い映画監督の中で写真専門学校中退。在学中には学生運動の闘士だった。

 親分肌で人望があったことから、推されて日本映画監督協会の理事長を務めていたが、大作娯楽作品にはほとんど興味を示さなかった。

「月はどっちに出ている」(1993年)、「刑務所の中」(2002年)、「血と骨」など人間の奥底を描くことを目的とする作品を好んだ。

 崔監督は国鉄スワローズ時代からの大のヤクルトファンだった。

「相手チームの主力を金で引き抜くようなことがまずない。品がいいよね」(崔監督)

 崔監督も筋を通すことをなにより重んじる品のいい人だった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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