崔洋一監督が語っていた松田優作さんとの交流 探偵物語で「てめぇ、この野郎!」と激怒され

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「血と骨」(2004年)など骨太の作品を撮ってきた崔洋一監督が亡くなった。73歳だった。崔監督は1989年に逝った松田優作さん(享年40)の親友。崔監督は松田さんの命を奪った膀胱ガンへの恨みを口にしていたが、その膀胱ガンが崔監督の命まで奪った。生前の崔監督が優作さんとの友情を語った肉声を再録する。

優作さんが会った途端に「今から飲みに行こう」

「優作と僕は同い年。お互いに27歳だった時に出会い、優作が亡くなる40歳までの13年間付き合った」(崔洋一監督)

 優作さんは1949年9月、山口県下関市で生まれ。一方、崔監督は同年7月に長野県佐久市で生まれた。

「優作と初めて会ったのは渋谷の雑居ビルの地下室。そこが村川透監督の映画『最も危険な遊戯』(1978年)のスタッフルームだったんですよ。主演が優作で、僕はチーフ助監督。優作は僕と初めて顔を合わせるなり、『俺が優作だ。おまえが崔か。今から飲みに行こう』と、ぶっきらぼうに言うんです。まだ午後3時ごろなのに(笑)。こっちは仕事中だったから、断ったところ、優作は『じゃあ、そのうち機会を作ってくれよ』と一方的に言い、去っていきました。ちなみに当時の優作と僕は業界での評判があんまり良くなかった。どちらも荒っぽかったからね」(崔監督)

「最も危険な遊戯」は優作さんが主人公の殺し屋・鳴海昌平を演じたハードボイルド・アクション。日本テレビ「太陽にほえろ!」(1973年)などのドラマで人気者になっていた優作さんが、映画スターとしても評価を固めた作品だ。続けて「殺人遊戯」(1978年)、「処刑遊戯」(1979年)が制作されて、3部作となった。

 その後、崔監督は優作さんのドラマの代表作である日本テレビ「探偵物語」(1979年)のチーフ助監督も務めた。崔監督と撮影現場で気があった優作さんの希望によるものだった。

 このドラマのエンディング映像は崔監督が演出・編集したもの。静止画が連続する映像だった。

「ほかに僕が『探偵物語』でやったことは、優作が演じた主人公の工藤俊作の衣装を考えたことかな。帽子とスーツとネクタイ姿。これは僕が決めた。シャツを赤にしたのは優作のアイディア。僕は感心せず、『やめたほうがいいんじゃねぇか』と言ったんだけど、ぴったりとハマりましたね。工藤の愛車をベスパにしたのも優作の考えでした」(崔監督)

「探偵物語」を振り返る時、崔監督は口元が緩んでいた。撮影時の2人は30歳で青春末期。何もかもが楽しかったのだろう。

優作さんが激怒する

 もっとも、やがて優作さんは崔監督に対し「てめぇ、この野郎!」と激怒する。半年間続いた「探偵物語」の後半で崔監督は監督デビューするはずだったが、崔監督がそれを辞退したからだ。

 故・若松孝二監督がプロデュースした1980年の映画「戒厳令の夜」(監督・山下耕作)のチーフ助監督になるためだった。

「若松さんから、『戒厳令の夜』を撮る時はチーフ助監督をやってくれって以前から頼まれていたんですよ」(崔監督)

 映画界、ドラマ界では広く知られていることだが、崔監督は筋を重んじた。誰もが憧れる監督デビューを捨ててまで若松さんを助けたのは崔監督らしい。

 故・大島渚監督による日本初のハードコアポルノ「愛のコリーダ」(1976年)も若松さんのプロデュース。チーフ助監督は崔監督だった。崔監督は有能な助監督として名高かった。

 映像論や演技論を理解していた上、スタッフをまとめることやトラブル処理もうまかったからだ。ロケに文句を言ってくる警察もチンピラも恐れなかった。

「探偵物語」の後も優作さんと崔監督の親交は続いた。

 1983年にはテレビ朝日の土曜ワイド劇場「松本清張の断線」(以下、断線)で初めて監督と主演俳優という立場になる。崔監督は日本テレビ「プロハンター」(1981年)で監督デビューを果たしていた。

「断線」を実際に制作したのは東映。映画「遊戯」3部作も製作したのは東映の子会社だった。東映側が優作さんと崔監督の相性の良さを考えた。

 原作は松本清張。優作さんは仕事も女性も転々とするうち、殺人を犯すクールな男を演じた。清張ドラマには珍しいハードボイルドタッチだった。

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