「名君」後鳥羽上皇の評価を一転させた「ひどい内容の院宣」は実在したのか――人気歴史家が徹底検証

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 後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」。朝廷と武士の力関係が決定的に逆転した、日本史の転換点とされている。

 この乱によって、それまで「文武両道の名君」とされていた後鳥羽上皇の評価も一変、とくに敗戦が不可避となった状況で出した「院宣」の内容があまりにひどいと、後世の歴史家によって批判されている。

 ところが、人気歴史学者・呉座勇一さんは、新刊『武士とは何か』において、後鳥羽上皇の評価を下げた「院宣」は実在しないと主張している。同書の一部を再編集して紹介しよう。

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 承久3年(1221)、勝利を確信して挙兵した後鳥羽上皇であったが、後鳥羽の予想に反して、鎌倉幕府軍の猛攻に後鳥羽方は連戦連敗であった。

 承久の乱最大の激戦である宇治川合戦は、同年6月13・14日に行われた。幕府軍がこれを制したことで、朝廷の軍事的挽回は絶望的になった。瀬田(現在の滋賀県大津市瀬田)でも後鳥羽方は敗れ、藤原秀康・三浦胤義ら後鳥羽方の主要な武将たちは京都に逃げ帰った。幕府軍の入京は不可避となった。

後鳥羽上皇の院宣

 歴史学者の本郷和人氏は、「幕府軍の京都入城に合わせて、後鳥羽上皇は敗北を認める院宣を出し、泰時が受けとりました。この内容がとにかくひどい。『自分は騙されただけだ』と乱の責任を藤原秀康、三浦胤義たちに押し付けたのです」と語る(『北条氏の時代』文春新書、2021年)。

 本郷氏が言う「敗北を認める院宣」とは、前田家本系統の「承久記」諸本に見える後鳥羽上皇の(承久3年)6月15日付けの院宣(上皇側近が上皇の意を奉じて出す命令書)のことで、氏は著書でこれを引用している。以下に大略を示す。

 藤原秀康・三浦胤義らの討伐命令を既に下した。また北条義時討伐命令を撤回し、幕府方であるとして解任した者たちを復帰させる命令も下した。(後鳥羽上皇は)天下を治める朝廷の政治には今では関与していないが、今回の件についてはもちろん承知している。秀康らにそそのかされて義時討伐命令を出したことは悔やんでも悔やみきれない。天の災いであり、悪魔のしわざである。今後は朝廷では武士たちを召し使わない。家業を怠り武芸を好む公家も出仕させない。このように改めるので、万一、また戦乱が起きた時は、(上皇に責任がないことを)ご理解いただきたい。(上皇は)誤りを認め反省している、と。

 本郷氏はこの院宣について「『戦争放棄』『軍備の放棄』を宣言することで、今回の件は許して欲しいと訴えたのです。この院宣こそ、日本史の大きな転換点といっていいでしょう」と述べている。

院宣に関する矛盾点

 だが前田家本「承久記」は、鎌倉時代後期以降に成立した軍記物であり、その記述を無条件で信用することはできない。より信憑性の高い史料と比較して、6月15日の院宣が実在したかどうか検討してみよう。

 承久の乱の同時代史料として史料的価値が高い記録に、「承久三年四年日次記(ひなみき)」がある。仁和寺の僧侶が書いたとみられる日記である。同記によれば、6月15日に勅使(ちょくし)(天皇の使者)の小槻国宗(おづきのくにむね)が、入京した北条泰時と面会し、義時討伐命令を撤回する意向を伝えたという。しかし同記に従えば、討伐命令が正式に撤回されたのは6月18日である。前掲の6月15日院宣で、討伐命令が既に撤回されたかのように記されていることは、以上の事実と矛盾する。

 加えて、同じく「承久三年四年日次記」によると、藤原秀康らの討伐命令が下されたのは6月19日のことである。6月15日院宣で秀康討伐命令が既に出ているように記されていることは、この事実とやはり矛盾する。

院宣は後世の創作

 よって、6月15日の後鳥羽院宣は、後世の創作と捉えるべきだろう。鎌倉幕府の準公式歴史書である「吾妻鏡」にも、6月15日に小槻国宗が泰時と面会した話が見える。勅使が持ってきた院宣には「今度の合戦は後鳥羽上皇の意思によるものではなく、腹黒い臣下が勝手にやったことである。彼らがいなくなった今、幕府の申請通りに命令を下す。京都で乱暴狼藉を働かないよう、東国武士たちに命じてほしい」といったことが書かれていたという。

 おそらく前田家本「承久記」のいう6月15日の院宣は、この「吾妻鏡」の記述を膨らませて創作したものだろう。ただし「吾妻鏡」の記述じたい、事実かどうか分からない。

 鎌倉後期に公家の手で編纂されたとみられる歴史書「百錬抄(ひゃくれんしょう)」では、6月16日に国宗が幕府軍と交渉し、義時討伐命令を撤回する代わりに武士たちの狼藉を鎮めてほしいと要請している。「吾妻鏡」はこの記事を材料に院宣を創作し、前田家本「承久記」は院宣の内容をさらに増補したのかもしれない。話にどんどん尾ひれがつき、保身に走る後鳥羽上皇の情けなさが一層際立つようになったのである。

 したがって6月15日の時点で、後鳥羽上皇が軍備の放棄を幕府に誓ったとは考え難い。だが実際に歴史はそのように推移していく。逆に言えば、そうした結果を知っている後世の人が、軍備放棄の院宣を創作したと考えられよう。

後鳥羽上皇の哀れな末路

 後鳥羽方の主な武将のうち、三浦胤義・山田重忠は京都での市街戦で戦死した。捕らえられた後藤基清・五条有範(ありのり)・佐々木広綱・大江能範(よしのり)は7月2日に斬首された(「吾妻鏡」)。藤原秀康は逃亡するも10月に捕らえられ、斬首された(「吾妻鏡」)。後鳥羽の親衛隊である「西面の武士」は解体され、朝廷は固有の軍事力を失った。

 もはや朝廷は京都の治安を維持する力すら失った。代わりに幕府の京都出先機関である「六波羅探題(ろくはらたんだい)」が京都の軍事警察活動を担った。朝廷の地盤沈下は明らかである。

 極めつきは、天下を治めていたはずの後鳥羽上皇が隠岐に流されたことだ。後鳥羽の皇子である順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇も配流となった。この三上皇配流によって朝廷の権威は決定的に凋落(ちょうらく)し、公武の関係は逆転した。

 文武両道の名君と称賛されていた後鳥羽の評価も一転した。乱直後に成立した歴史物語「六代勝事記」は、後鳥羽を帝徳に欠けた悪王と非難し、哀れな末路は必然であると説いている。

『武士とは何か』より一部を再編集。

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