源実朝は「神仏と交信できる神がかり予言者」だった? 歴史書「吾妻鏡」が「奇妙な実朝像」を描いた深い理由

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 鎌倉幕府の3代将軍となった源実朝。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「北条泰時に思いを寄せる実朝」という斬新な設定で描かれて話題を呼んだ。

 じつは、鎌倉幕府の準公式歴史書とされる「吾妻鏡」においても、源実朝はかなり個性的なキャラクターとして描かれている。

 人気歴史学者・呉座勇一さんの新刊『武士とは何か』から、「吾妻鏡」における実朝像についての記述を再編集して紹介しよう。

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 鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」は、鎌倉幕 府3代将軍の源実朝を「予言者」として描いている。国文学者の藪本勝治氏が指摘するように、「吾妻鏡」における実朝は、夢のお告げや祭祀(さいし)を通じて神仏と交信できる神がかった人物として、一貫して 造形されているのだ(「『吾妻鏡』の文脈と和田合 戦記事」『軍記と語り物』56号、2020年)。源実朝が「源氏将軍家は私の代で断絶する」と“予言”したことは良く知られているが、他にもいくつか例を挙げよう。

和田合戦を予言した実朝

 承元4年(1210)11月24日、駿河国建穂寺(たきょうじ)(現在の静岡県静岡市葵区建穂に所在)からの使者が将軍御所に到着した。21日に同寺の鎮守である馬鳴大明神が「酉の年に合戦があるだろう」とお告げを行ったというのだ。

 そこで大江広元は「本当かどうか占いで確かめてみましょうか」と提案した。すると実朝は「21日の暁に自分も合戦の夢を見た。馬鳴大明神のお告げと符合するので、私の夢は神仏のお告げであり、偽りの夢ではないだろう。酉の年に合戦が起こるのは明らかなので、占いを行う必要はない」と述べたという。

 ここで言う酉の年とは3年後の建暦3年(癸酉)のことであり、この年には和田合戦が発生している。実朝の予言は見事に的中したことになる。

 そして建暦3年(1213)4月7日、実朝はまたも予言を行う。酒宴を行っていた実朝は、山内左衛門尉と筑後四郎兵衛尉(ひょうえのじょう)が通りかかったのを見かけて、2人を呼んで酒をふるまった。この時、「2人とも近いうちに命を失うことになろう。1人は私の敵として、もう1人は私の味方として」と述べたという。

 この予言も的中した。1ヶ月後に勃発した和田合戦で山内左衛門尉は反乱軍(和田軍)として、筑後四郎兵衛尉は幕府軍(源実朝・北条義時軍)として戦死した。

勝因は「祈願」か「陣頭指揮」か

「吾妻鏡」は和田合戦においても、実朝の神がかった力を特筆している。幕府軍の苦戦が伝えられると、実朝は神仏に戦勝祈願を行った。大江広元が願書を執筆し、実朝が自身の和歌を2首書き添えた。この願書を鶴岡八幡宮に奉納したちょうどその時、反乱軍の大将の一人である土屋義清が流れ矢に当たって死んだという。これは神のご加護によるものだと「吾妻鏡」は記している。実朝の祈願が神に通じた、という説明である。

 ところが慈円(じえん)が記した歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」によれば、実朝は神頼みなどしていない。実朝が陣頭指揮をとったことが勝因の一つだ、と説いているのである。神仏祈願の話が「吾妻鏡」による脚色であることは明らかだろう。

夢のお告げで巨船を造船

 しかし和田合戦後、実朝の神通力には弊害も目立つようになる。建保4年6月、東大寺の大仏を再建したことで知られる中国人の陳和卿(ちんなけい)と実朝は面会した。和卿は「あなたの前世は医王山(現在の中国浙江省の阿育王山阿育王寺)の長老です」と語った。

 実朝はかつて同内容の夢を見ていたのでこれを信じ、11月には中国への渡海、医王山参拝のために巨船を建造するよう命じた。義時と広元は諫めたが、実朝は造船を強行した。だが翌5年4月の進水式は失敗し、巨費を投じた渡海計画は幻に終わった。「吾妻鏡」からは、神のお告げに頼り、失政を犯した実朝を批判する意図が感じられる。

「吾妻鏡」は、北条氏の覇権が確立した鎌倉後期に、北条氏周辺で編纂された鎌倉幕府の準公式歴史書である。同書が実朝をシャーマン的な司祭王として描写するのは、北条義時が現実的な政治・軍事を司っていたことを際立たせるための作為であろう。両者の役割分担を強調することで、実朝時代においても北条氏が政治の実権を握っていたことを示唆し、北条氏による幕府支配を正当化しているのである。

『武士とは何か』より一部を再編集。

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