「55年間も日記を書き続けた有名貴族」が「源平合戦」の勃発を記さなかった“意外な理由”

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 ところが不思議なことに、平安鎌倉期を代表する歌人・藤原定家の日記には、当時の大騒乱であった「源平合戦」勃発に関する記述がほとんどない。

 この謎について、昔から多くの文学者や歴史家が議論を繰り広げてきたが、人気歴史学者・呉座勇一さんの新刊『武士とは何か』には、新しい見解が示されている。以下、同書の記述を再編集してお届けしよう。

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 勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)「新古今和歌集」の撰者である藤原定家は、最も著名な歌人の一人である。周知のように彼は朝廷に仕える貴族であって、19歳から74歳まで書き続けた日記「明月記(めいげつき)」は、鎌倉時代初期の政治・社会を知る上で欠かせぬ一級史料である。

 さて「明月記」のうちの一巻である治承4・5年記(定家自筆本、天理大学附属天理参考館所蔵)には「世上乱逆追討、耳に満つといえども、これを注さず。紅旗征戎、吾が事にあらず」という有名な書き込みが存在する。日付はないが、書き込み箇所から、治承4年(1180)9月に平維盛(これもり、清盛の孫)が東国遠征に向かったことを受けての記述と推定される。

 当時、源頼朝ら諸国の源氏が打倒平家を掲げて挙兵していた。各地での反乱のうわさ、また討伐の情報は定家の耳に次々と入ってきたが、定家は戦乱のことをあえて日記に記さないと語る。紅旗を翻して賊軍(源氏軍)を撃破するなど、自分とは関係ないから、というのがその理由であった。

堀田善衞の感動

 こうした定家の態度は、歴史学界では、乱世の現実に目をそむける宮廷貴族の無責任として批判的に受け取られてきた。歴史学者の本郷和人氏は「源氏と平氏が全国規模の争乱を起こしても、飢餓で人々がたおれても、定家にとっては「ひとごと」であった」と批判している(『日本中世史の核心 頼朝、尊氏、そして信長へ』朝日文庫、2019年)。観念的な公家が現実的な武士に取って代わられる中世を象徴する一節、という理解である。

 一方、文学者は、世俗と距離を置く高踏的な姿勢に定家の芸術至上主義を見出し、好意的に評価してきた。この1節に最も強い思い入れを示すのは、小説家の堀田善衞(よしえ)の『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫、1996年)であろう。戦時中、召集令状を待つ身だった20代の堀田は「明月記」のこの一節を知り、愕然としたという。

 治承4年当時の定家が自分より年少の19歳であったことを知り、その若さで「時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然として言い抜いている」ことに驚き、彼我の格差に絶望さえしたと堀田は述懐する。

 すなわち「自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否定し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていること」は衝撃であり、「定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった」というのだ。

70歳前後に書かれた?

 ところが、堀田の感動に水を差す論考が1972年に登場した。「世上乱逆追討、耳に満つといえども、これを注さず。紅旗征戎、吾が事にあらず」の一節は、定家が19歳の時に記したものではないという学説である。

「明月記」研究の大家として知られた辻彦三郎は、治承4・5年記は寛喜(かんぎ)2年(1230)前後に書かれたと結論付けた(『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館、1977年)。この時期、定家は70歳前後である。

 堀田も辻の研究に接し、「この治承四、五年記は、記事がただに切れ切れであるだけではなく、その料紙や、筆蹟、修正補筆の跡などから考えて、定家七十歳前後にいたって清書し直されたかと疑われる部分もあるのである」と留保をつけている。ただし「世上乱逆~」の部分は治承4年時点で書かれていたと譲らない。「外国(中国)思想を援用してこの時期をカヴァーしようという文学青年の姿勢は、やはり人をして注目せしむるものがあるであろう」と、若き天才歌人の感受性を強調している。

定家の真意はどこにあったか

 上の主張は必ずしも、青年期の感傷を否定されたくないという文学者のロマンとは言い切れない。その後、学界でも辻説への批判が現れたのだ。
 
 確かに辻が指摘する通り、「世上乱逆~」とその前後の記事は、記述の錯綜などを考慮すると、リアルタイムで記されたものとは思えない。先述したように「世上乱逆~」の一節には日付もない。9月の記事を書いているところに誤って8月の記事を挿入し、後に墨で塗抹(とまつ)するなどの混乱も見られる。こうした日記としての不完全さから、現存の治承4・5年記が後日の筆録であることは疑いない。

 けれども、後年の書写であるからといって、その際に加筆が行われたとは限らない。元になる日記を後年に清書したという状況を想定した場合、「全体は当時のものであり、それの書写に際して書き間違ったりしたものを墨で消した」(五味文彦「『明月記』を書写し利用した者は誰か」『国文学 解釈と教材の研究』38―2、1993年)と推測するのが自然である。

 したがって、「世上乱逆~」の一節を何十年も後になって書き加えたと想定する必要はない。若き日の定家の感慨を表すもの、と素直に捉えて差し支えないのだ。

 なお「紅旗征戎、吾が事にあらず」という一文は、中国の詩人白居易(はくきょい)の漢詩を典拠としている。そこで、50間近の白居易が身の不遇を嘆く詩に、弱冠20歳に満たない定家が己の感慨を託すのは時期尚早と辻は論じる。
 
 しかし、辻の言うようになるほど漢詩全体の趣は悲観的だが、前述の通り、「紅旗~」の一句だけを切り取れば、あえて俗事を避ける積極的な意味が生まれる。この反転が妙味ともいえよう。

歴史の記録者になれなかったがゆえの「負け惜しみ」?

 ただ私は、「紅旗征戎、吾が事にあらず」を芸術至上主義の発露とは解釈していない。定家は「明月記」治承4年5月条で、諸国源氏の挙兵のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)の乱について詳しく記している。また同年11月7日条では富士川合戦に敗れた平維盛が京都に戻ってきたことに触れている。そして同年12月条では平家軍の近江進攻・南都焼き討ちに言及している。定家が戦乱に関心を持っていなかったとは思えない。

「明月記」治承4年7月25日条などを参照するに、定家は治承4年8月から9月にかけて、家族の看病のため、満足に日記を書くことができなかった。メモ書き、備忘録のようなものを少し書くのが精いっぱいだったと思われる。

 だが、この期間は治承・寿永の内乱の始まりという、歴史的に重要な時期であった。不可抗力とはいえ、歴史の貴重な記録者になれない定家は悔しかっただろう。その無念をごまかすため、「戦乱なんかに興味はないから書かないのだ」と強がったのではないだろうか。

『武士とは何か』より一部を再編集。