「自分は人殺しと一緒です」無実を確信しながら死刑判決を書いた裁判官の告白【袴田事件と世界一の姉】

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 1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家4人が殺される「袴田事件」が起きた。この事件の犯人として死刑判決が下った袴田巖さん(86)が再審無罪を求める冤罪事件を追った連載「袴田事件と世界一の姉」の26回目。半世紀前、静岡地裁の3人の裁判官の中でただ1人、無罪を主張した熊本典道氏(1938~2020)。袴田事件で死刑判決を下したことを悔やみ、1969年に裁判官を退官、苦しみ抜いた流転の男は、約40年後、裁判官の守秘義務を破り「無実だと確信していた。袴田さんを救いたい」と告白した。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

異例の実験視察

 最近、袴田事件の再審請求を巡って進展があった。

 11月1日午後、再審可否を判断する東京高裁の大善文男裁判長と陪席裁判官、書記官が静岡地検を訪れたのだ。3人は「『5点の衣類』が本当に犯行着衣だったのか」の判断材料となる検察側の味噌漬け実験を視察した。

 巖さんは1966年8月18日に逮捕・拘留されている。警察 は1年後の1967年8月31日、麻袋に入った「5点の衣類」が味噌タンクの底から見つかったとし、それを犯行着衣とした。それまでの公判で犯行着衣としていたパジャマから返り血は検出されず、窮地となった検察が変更したのだ。しかし、長期間、味噌漬けになっていたにもかかわらず、衣類に付着した血痕は黒ずんではいなかった。

 検察とは別に血痕の色の変化を調べる実験を独自に行っていた弁護団(西嶋勝彦団長)は、「1年2カ月もの間、味噌に漬かった血痕に赤みが残るはずがない」と結論づけ、「これまでの検察の実験は空気が入らない密封状態にするなどして赤みが残るような条件を作っているだけ」と批判してきた。

 検察の実験を視察した裁判官は、昨年9月から味噌に漬けられた血液が付着した布をじっくりと観察し、書記官が写真などに収めた。弁護側にしろ、検察側にしろ、立証のための実験を裁判官が自らの目で確かめるのは異例のことだ。視察に立ち会った弁護団の小川秀世事務局長は、「裁判官は無言だったが、どう見ても赤みは残っていない。これで再審開始は間違いない」と話す。

「血の付いた布を味噌に1年漬けたらどうなるのか」という実験をした科学者などこれまでに存在しない。「前例」を重視する傾向の強い裁判官が、いったいどう判断するのか。

「70歳になったら話す」

 さて、前回に続き今回も、静岡地裁での一審で巖さんの無罪を主張したものの、意に反して有罪・死刑の判決文を書かされた裁判官の熊本氏を取り上げる。熊本氏が静岡地裁に赴任した時には、既に「袴田事件」の初公判は終わっていたが、第2回公判から左陪席の主任として事件を担当した。

 筆者はかつて『週刊女性』の記事執筆のため、熊本氏を訪ね福岡県福岡市に行ったことがある。以下はその取材から。

「『風呂に入れてほしい』と寒い朝の4時ごろ、突然、家にやって来たんですよ」

 福岡市東区の一軒家に住む島内和子さんが、当時のことを振り返る。島内さんは若い頃に離婚し、福岡市内で露天商をしていた。難しそうな本を手に、週に2度ほど現れる男がいた。穏やかで品のよい美男子だが、歯が抜けて人懐こい表情だった。2人は親しくなり、一緒に暮らし始める。

「私には弁護士だったとは話していましたけど、再登録とかはうまくいかなかたようです」(島内さん)

 この男がその昔、司法試験をトップで合格し、「最高裁判事は間違いなし」と期待された超秀才だとは、島内さんは知る由もない。しばらくすると熊本氏は、意味のわからないことを言い出したり、黙りこくったりするようになる。「何か悩み事でもあるの?」と島内さんが尋ねても、「70歳になったらちゃんと話すから」と繰り返した。

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