なぜ「新しい国づくり」はうまくいかないのか 泥臭さとセットで成立する共同体(古市憲寿)

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 東京のお台場を歩くたびに思う。ここは「人間の街」ではない、と。さっと道路を渡りたいだけなのに、とんでもない遠回りを強要されたり、巨大歩道橋を渡らされたりする。お台場に実物大ユニコーンガンダム立像が設置されているのは慧眼だと思う。確かにガンダムに乗れば、お台場は快適な街だといえる。

 新宿駅西口、汐留、天王洲など、比較的新しい街というのは、概して歩きづらく、殺伐としている。恐らく設計者が神のような視点で人間の動線をコントロールしようとしたのだろう。だが人間はそう思惑通りには動かない。神視点の街は人間には暮らしにくい。

 それにしても「シムシティ」というゲームもあるくらい、一から街を作るという発想は魅力的なのだろう。街どころか国を一から作ってしまおうという場合もある。たとえば戦前の満洲国は、建設者や技術者にとって夢のような空間だったはずだ。複雑な権利関係に悩まされることもなく、政治家の顔色をうかがう必要もない。首都である新京は地上の楽園として構想され、日本が東洋の盟主となるための足掛かりとされた。今でも長春に行けば、わずかに夢の跡を見ることができる。

 つい10年ほど前も、「新しい国」を作るという話題が盛り上がっていた。経済学者のポール・ローマーが企図したチャーターシティ構想である。彼は中米ホンジュラスの一角を租借して、全く新しい国を創造しようとした。国際法上はホンジュラスの一部だが、憲法や法律が適用されない。その代わりに、街の「憲章(チャーター)」が全てに優先される。つまり、事実上の独立国家になるはずだった。

 だが計画は難航。外国企業による支配と土地収奪に対する警戒感が消えず、ついに今年、チャーターシティの許可法まで廃止されてしまった。

 類似の試みは他にもある。PayPalの創業者ピーター・ティールらは、独立海上国家の建設をもくろんでいた。「2020年に『海上都市』が誕生する!」という勇ましいニュースもあったが、どうやら実現は難しそうだ。

 こうした無数の計画の中には大成功する「国」があるのかもしれない。だが「新しい」という魅力的な言葉とは裏腹に、人間の集まる共同体は常に泥臭さとセットでもある。

 埼玉県にある「新しき村」を見学したことがある。1918年、武者小路実篤が高い理想に燃えて創設した村落共同体だ。どれほど素敵な場所なのかと期待して訪れたら、見た目は寂れた農村に過ぎなかった。

 村に住む高齢男性に話を聞いた。「人類愛」や「人類共生」といった理念を熱く語ってくれるのかと思ったら、口をついて出たのは愚痴だった。いわく「女の人が少なかったから料理などの家事が大変だった」「布団の上げ下げが面倒だった」。

 国家にしても街にしても、根っこにあるのは生活である。人々の生活を無視した社会構想は失敗する可能性が高い。お台場はいつになったら「人間の街」になるのだろうか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年11月10日号掲載

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