日本人がW杯の現実を目撃した「エスコバルの悲劇」 「感動をありがとう」は許されない世界の常識(小林信也)

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 Jリーグが誕生した1993年、W杯アメリカ大会の予選も並行して行われた。多くの日本人が切なる願いを込めてサッカー日本代表を応援した、歴史的な現象が日本列島を席巻した。

「感動をありがとう、じゃないんだな、サッカーは」

 久しぶりに会ったナンバー編集長・設楽敦生(故人)がぶっきらぼうに言った。私が25歳でナンバーの仕事を始めた時、担当デスクが設楽だった。初めて短い原稿を書いて提出すると、

「君の文章なんかさ、1行目がつまらなかったら誰も2行目を読んでくれない」

 強烈な一言だった。それからずっと設楽の言葉を肝に銘じ、一行一行に生き残りをかけて書き続けてきた。

 一緒に仕事をした80年代、人気のないサッカーは特集テーマにならなかった。ラグビーがしばしば表紙を飾るのと対照的。それがJリーグ誕生で一変した。「ナンバーはサッカー雑誌になった」と揶揄されるほど、毎号サッカーを扱った。それは日本の空気を反映していた。本戦出場をかけた最終イラク戦は、テレビ東京史上最高視聴率48.1パーセントを記録。だが、熱狂する国民が最後に見せられたのは、“ドーハの悲劇”だった。

 後半ロスタイム。コーナーキックを守り切れば初のW杯本戦出場が決まる。ところが、ショートコーナーに意表を突かれ、守備陣が集中を失った隙に、長身サルマンのヘディングがGK松永成立の手の先をふわりと越えた。あれほどの「ぼうぜん」を国民が共有したのはいつ以来だったのだろう。

 それでも、多くの日本人が「感動をありがとう」と叫んだ。すると当事者のラモス瑠偉が怒った。

「感動をありがとうじゃない、オレたちは戦いに負けたんだ」、世界のサッカーは甘いねぎらいを許さない、そのことを日本は教えられた。Jリーグが誕生し、サッカー・ジャーナリズムが広がるまで、日本のスポーツ報道は「感動をありがとう」が主流だった。熱狂的な野球ファン、予想の外れた競馬や競輪の投票者がひいきを罵倒することはあっても、メディアの論調はあくまで「感動をありがとう」だった。ところが「負けは許さない、甘い温情は注がない」とする「世界のサッカーの常識」が輸入され、報道や世論のスタンスも一変した。その変化を率先して啓発する立場の設楽でさえ、まだ戸惑っていた。

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