金正日は真夜中に鹿を撃つアントニオ猪木をこっそり見ていた…平壌市民38万人を集めたプロレス興行秘話

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 昭和のプロレス界を牽引したアントニオ猪木さんが、10月1日に79年の生涯に幕を閉じた。レスラーとしての活躍はもちろん、国会議員や実業家としても数々の逸話を残した猪木さんは、とりわけ“北朝鮮”に熱い思いを抱き続けていた。なかでも、1995年4月に平壌で開催されたプロレス興行は“伝説”として語り継がれる。元新日本プロレス取締役で、「猪木の参謀」と呼ばれた永島勝司氏が、38万人の市民を熱狂させた北朝鮮興行の秘話を明かす。(「週刊新潮」2014年1月30日号掲載)

 1月16日、猪木は28回目の訪朝を終え、帰国しました。彼は、昨年11月初めに訪朝した際、張成沢国防副委員長(国家体育指導委員長)と面会している。その翌月、張が粛清されたのは、ご承知の通りです。それから2カ月しか経っていないのに、なぜ再び訪朝したのか? 正直言って、北と早急に話し合わねばならないテーマもないだろう。長年、猪木を見てきた私に言わせれば、彼独特のパフォーマンスだね。張が殺され、猪木と北のパイプがなくなったとの見方は少なくない。このタイミングで訪朝すれば、実際、北との親密な関係は変わらず続いていることを誇示できるからね。

 一方、北は昨年末、金正恩第1書記の肝いりで馬息嶺(マシクリョン)スキー場を完成させています。今回、猪木はここを訪れ、向こうで大々的に報じられていた。北は今後、このスキー場を観光特区にし、外貨を稼ごうとしている。平壌では、我々がプロレスをやって以来、猪木は誰もが知る日本人だからね。彼を呼んだ最大の目的は、スキー場の宣伝に使うためじゃないかな。

〈永島勝司氏は1966年、東京スポーツに入社。プロレス担当記者時代に猪木氏と親しくなり、新日本プロレスへ転じた。その後、広報、プロデューサーを経て取締役企画部長に就任し、「猪木の参謀」といわれた人物である。永島氏自身、94年以来、訪朝歴は15回に上る。〉

 猪木が北に興味を持ったのは94年の初夏でした。「北朝鮮で生まれた力道山のために平壌に殿堂を造りたい」と言い出してね。この時、すでにロシアやイラクで興行をやっていたので、大して驚きはしませんでした。そこからは朝鮮総連に人脈のある人を介して話がトントン拍子に進み、私と猪木はその年の7月に初めて平壌へ行くことになった。ところが、北京まで行ったものの、金日成主席が亡くなり一旦延期に。9月にようやく実現しました。

 この時、私と猪木が会ったのが、朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長の金容淳(キムヨンスン)書記(当時)です。北の偉い人を前にして私は少し緊張していましたが、猪木は違った。ふと彼が「共和国のミサイルは日本に向けて発射準備に入っているといわれているが本当か」と言い出した。それに対し、金容淳は「日本が悪いことをしなければ撃つことはない」と答えた。すかさず猪木は「じゃあ、日本の方に向いているんだ」と切り返すと、二人はガハガハ笑い始めたのです。これで空気が一変してね。それと、猪木も金容淳も糖尿病なんですが、猪木が「風呂に水を張ってザブンと入れば、酒を飲んだって大丈夫だ」と言うと、金容淳も「そうなのか!」と楽しそうに答え、10年来の友人みたいになりました。

 こちらは予定通り、力道山の殿堂を造るつもりでしたが、金容淳が「プロレスを(北朝鮮の)国民に見せることはできないか」と聞いてきた。すると、猪木はすぐに私の方を見て「やるよな?」と言わんばかりの表情をしたので、ついつい私も小さく「うん」とうなずいてしまった。それでプロレスをやることになったというわけです。

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