“全てを実現させる男”アントニオ猪木さん 日本が熱狂した「天才レスラーの魅力」

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 普段なら、自らを鼓舞するためにかける「炎のファイター」も、今回は涙なくして聴けない。逆境から這い上がることが人生だと信じ、「燃える闘魂」という言葉に支えられて生きてきた多くのアントニオ猪木ファンは今、傷心を抱いているだろう。だが、猪木の旅立ちは新たな闘魂伝説の始まりかもしれない。この4月、猪木の魅力について詳述した新潮新書『アントニオ猪木―闘魂60余年の軌跡―』の著者・瑞佐富郎氏が、同書に書き込めなかった秘話を明かす。

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愛弟子・藤波辰爾、猪木さんへの思い入れが伝わるエピソード

 それから23年後の2011年7月9日、筆者は猪木を通常取材した。当時、新宿にあった、自らの名を冠した「猪木酒場」にて。次の大会に関する所見を伺うといった体のそれで、同大会に出場する藤波辰爾も来ていた。他の客の邪魔にならぬよう、奥のVIPスペースに入る。机上には豪華なオードブルが並んでいた。

 すると、藤波が、無言で妙な行動を起こした。割り箸を取るや否や、その料理をつまみ、皿に取り始めたのである。そして、それを猪木の前に、そっと置いた。その後、自身は猪木と2人分横を空けて着席していた。藤波は既に48歳。ジュニア・ヘビー級人気の基礎を築き、IWGPヘビー級王座を6度獲得した重鎮だった。それでもなおの、師匠・猪木への思い入れに、胸が熱くなった。

猪木に魅せられ、心奪われてきた人々

 他、猪木に憧れプロレス入りした橋本真也、団体内の反逆を猪木が潰すことなく受け入れ今がある長州力、その異種格闘技戦線でオープンフィンガーグローブのアイデアを猪木に供与し、後には初代タイガーマスクブームを起こした佐山サトル、反駁(はんばく)もありつつ、総合格闘技の礎を築いた前田日明、猪木がホーガンに失神KO負けした際、「自分がホーガンを倒すんだ」とプロレスラーを目指した船木誠勝、そして、まさに幼少期より猪木に心酔し、実況アナとして“闘魂の語り部”と呼ばれるようになった古舘伊知郎……。

 猪木という恒星の元に集った多士済々な惑星たち。それらを見ても、猪木の死は、ゼロといえるだろうか。残してくれたものの大きさは、失ったものの大きさと釣り合い、時に超えると、今、信じたい。

 4月に拙著『アントニオ猪木―闘魂60余年の軌跡―』を上梓させていただいた。上記の逸話群は入っていないが、同じくオミットしたネタで、お気に入りのものがある。

 猪木は将棋の名誉五段だった。好きな駒は飛車だという。大意だが、こんな発言が残っている。

「居飛車は俺の性に合わない。四間飛車、三間飛車で相手をかき回すの、面白いだろう?」……。

猪木が見せてくれた夢

 私たちは、思ってきた。「あのエースとあのエース、闘ったら、どっちが強いだろう?」「一番強い格闘技はなんだろう?」「世界中の王者が集まって一番を決めれば面白いなあ」「プロレス未開の地で、そのすごさが伝わればいいのに」、そして、異国の地(イラク)に人質として捕らわれた日本人の報を聞き、「誰かが日本から助けに行かないのか!」……。

 猪木は全て、実現させてきた。これらの一部始終は拙著に詳述させていただいたが、今、改めて思う。猪木は、子供の心が思う、大人の夢を見せてくれた人物だったと。

 古舘伊知郎は、こう言った。「我々は、思えば全共闘もビートルズも、お兄さんのお下がりでありました。安田講堂もよど号ハイジャックも、あさま山荘も三島由紀夫の切腹もよくわからなかった……。ただ、アントニオ猪木の雄姿はよくわかりました!」(1988年8月8日、藤波戦の実況より)

 人は、死んでから、その本当の価値がわかるという。我々は、猪木を見、聞き、感じてきた。そして、今、生きている。語りついでいきたい。真の闘魂伝説は、いよいよここから始まるのだ。

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瑞 佐富郎(ミズキ・サブロウ)
1971(昭和46)年名古屋市生まれ。プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。1993年、フジテレビの専門分野別クイズ番組「カルトQ」プロレス大会で優勝。

デイリー新潮編集部

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