風狂、枠をはずせ! スティーブ・ジョブズが謎の日本人禅僧から体得したスキル 釈徹宗×柳田由紀子・対談

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 禅に傾倒したといわれるスティーブ・ジョブズ。彼には、20歳で出逢い、終生、師と慕った日本人禅僧がいた。その禅僧の伝記作者、柳田由紀子氏が、如来寺住職で相愛大学学長の釈徹宗氏に、「つまるところジョブズは禅から何を学んだのか?」を訊く。見えてきたのは「風狂」、世界を脱構築する力だった!

ジョブズの師は、宗教的才能溢れる日本人禅僧

柳田由紀子(以下:柳田):「スティーブ・ジョブズと禅」への関心から、ジョブズの師だった禅僧、乙川弘文(おとがわこうぶん・1938~2002)の伝記『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』を上梓しました。ジョブズと禅については、本のなかで私なりの答えを記したつもりですが、比較宗教学がご専門の釈先生からご意見をうかがいたいと、ずっと思っていました。

釈徹宗(以下:釈):まず、なんといっても弘文さん。柳田さんの伝記を読んで、実に、宗教的才能に溢れた人だと唸りました。あれだけピュアに宗教の領域にいることができたのは、才能がある証拠です。それはもう、うらやましくなるほど。実は私、子どもの頃にこういう人たちを見ているんですよ。

柳田:どんな方々?

釈:うちのお寺の周辺にいた念仏者たち。彼らには、まったく威圧感がありませんでした。

柳田:確かに、弘文さんを知る人たちは、「一緒にいても、気まずい空気が少しも流れなかった」と述懐していましたね。弘文さんって、のぼー っとした、ちょっと天然ボケっぽい人だったようです。戦闘的で、ピリピリしたジョブズとは対照的。

釈:ですから、よく「あの宗教者にはカリスマ性がある」なんて表現をしますけれど、カリスマ性を感じさせるようでは、まだまだってことなんです。

柳田:カリスマじゃ、まだまだですか?

釈:はい、まだまだです(笑)

柳田:ジョブズは、思春期から自分は何者なのかを問い続け、絶叫セラピーや断食、薬物のLSDなどあらゆる方法で、いわゆる自分探しをした人物です。そして、20歳で乙川弘文に出逢います。

釈:ジョブズって、生きづらさを感じて生きる子どものひとりだったと思うのですよ。才気溢れる一方、過剰な自己とどうつきあうか、幼い頃から解を探していたように見受けられる。

柳田:なにしろ自分、自分、自分!  の人だったようですから。その人が、大学をドロップアウトしてインドを放浪し、生きる意味を探しあぐねていた時期に、シリコンバレーの実家付近にあった坐禅道場をのぞいたところ、永平寺からやって来た弘文さんがいた。

釈:まさしく僥倖でした。弘文さんとの邂逅によって、ジョブズは渦巻いていた扱いかねる自己、あちこち彷徨(さまよ)っていた精神から、ガバっと回路を開くことができた。比較宗教学的に見ると、禅は脱権威、脱倫理の傾向が強い宗派です。世間や人間が持っている枠組みはすべからくはずせ、構築されたものは解体してしまえといった宗風がある。「殺仏殺祖(さつぶつさっそ)」、これは中国唐代の禅僧、臨済の言葉ですが、たとえ仏や祖師であっても、己を惑わせるものは否定し、脱しなければならない、そうしなければ本当の自分に出逢えないとさえ説いています。

柳田:激しいですね。

風狂を許し、むしろ高く評価する禅

釈:だから、禅は風狂を許す。許すというより、むしろ高く評価するのです。

柳田:風狂とは、常軌を逸していること、あるいはその人のこと。ジョブズは、これだ! と身震いしたことでしょう。実は彼、13歳でキリスト教を棄教しているんです。両親は、プロテスタントのルター派。熱心な信者ではなかったけれど、子どもを連れて日曜に教会に行ったりはしていた。ところがジョブズは、ある質問に対する牧師の答えが気にくわなくて「もう行かん!」と。

釈:そうなんですか。キリスト教は、枠にはめようとする力が強いから、合わなかったのかな。とくにルター派は、誠実、真面目、正直などの倫理性を、薄皮を1枚ずつ積み重ねるように練っていく宗派です。

柳田:風狂の真逆ですね。弘文は、曹洞宗の大本山、永平寺からアメリカに派遣されたというのに、開創した寺や弟子たちを、あえて曹洞宗に登録しませんでした。本部からプレッシャーもあったでしょうに、宗派の枠を超え単立寺院として生きる道を貫いた。ふわっと柔らかく見えて、実のところ、肝の太いお坊さんだったと思います。

釈:それですよ、きっと、ジョブズが弘文さんから学んだひとつは。枠組みをはずす実践を間近に見て、そのスキルを自分のものにしていったのでしょう。弘文さん同様、ジョブズにも曹洞宗って意識はなかったんじゃないかしら?

柳田:かつてジョブズの京都案内をしたハイヤーの運転手さんが、「禅をやってる」と言った彼に、「臨済禅、それとも曹洞禅、黄檗禅ですか?」と尋ねています。その時、ジョブズは「曹洞だ」と答えたようですが。また、臨済や黄檗と曹洞では坐禅の方法が異なりますが、ジョブズの坐禅は曹洞宗の流儀でした。でも、彼自身が公に宗派に言及したことも、さらには、仏教徒だと公言したことさえなかったように思います。

釈:先にも述べたように、禅は殺仏殺祖ですから、極端な話、仏教徒の意識がなくてもいい、もっといえば、仏教さえ解体していく。それに、そもそも釈迦は「仏教を信仰しなくてもいい。生きるうえで使ってくれればいい。使い終えたら捨ててもいい」との言葉を遺しています。

柳田:ほお、なんと鷹揚な。

次ページ:坐禅で「直感が花開く」(スティーブ・ジョブズ)

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。