「恐山のイタコ」は存在しない!? 小林秀雄賞受賞の禅僧が語る「知られざる恐山の姿」

社会 2018年8月29日掲載

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「恐山のイタコ」はいない

超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―』で第17回小林秀雄賞を受賞した恐山の禅僧(恐山菩提寺院代)、南直哉氏による「恐山」の話。今回はあの「イタコ」についてのエピソードを中心に見てみよう(以下、引用はすべて南直哉著『恐山 死者のいる場所』より)

 実は意外なことに正確にいえば「恐山のイタコ」なるものは存在しないのだという。恐山がイタコを管理しているわけでもなければ、イタコが恐山に所属しているわけではない。

 ただ、実態としては参拝客に対してイタコが降霊術をしているのは事実だ。しかし寺のほうで推奨しているわけでもないし、邪魔をしているわけでもない。

「イタコさんというのは、個人業者です。本来は、自宅に人を招いて行うものです。それが、北東北地方の神社仏閣で大きな祭礼や法要があると、そこには人が多く集まるので、『出張営業』に来ているのです。例えはよくないかもしれませんが、縁日の出店みたいなもの、と考えていただいた方が妥当です。
 我々菩提寺の人間も、会えば挨拶はするし、本名ぐらいは知っています。しかし彼女たちの住所も電話番号も、連絡先は一切知りません。むしろ、把握しないようにしています。歴史的な経緯もありますから、イタコさんが恐山に集まって口寄せをするのを拒むことはありません。しかし、参拝客と彼女たちの仲を取り持ったりすることは一切しないのです」

 しかし、参拝客や観光客はそんな事情を知らない。それだけにいろいろとお寺のほうは苦労が絶えないようだ。

「参拝や観光で訪れることができる恐山の開山期間は、5月1日から10月31日までです。その間にかかってくる電話の8割か9割は、イタコさんについての問い合わせです。
『いつ行けば会えるんですか?』
『口寄せをお願いしたいと思っているのですが、いくらかかるのでしょうか?』
『一番有能なイタコを紹介してください』
 ご説明したように、我々はイタコさんのマネージャーではありません。
 そう申し上げると冷たく聞こえるかもしれませんが、そのような態度を取り続ける理由があるのです。それは、危ないからです。

『恐山』
南 直哉 著

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 恐山でイタコに口寄せをお願いしたいと考えている人の多くは、例えば、亡くなったお父さんやお母さん、あるいは友人といった生前親しかった人の言葉、あるいは声が聞きたいと思っている人たちです。大抵の人は、『ああ、お父さんの懐かしい声が聞けました』『お母さんと話ができました』と喜んで帰っていきます。その満足した顔を見ると、それはそれでいいと思う。いいのですが、時としてそれでは済まないことがあります。基本的に口寄せというのは、イタコさんと一対一で向き合って行うものです。そうすると必然、個人的な問題の奥深くに触れざるを得ないことがある。ここが危ない。

 去年と今年と立て続けに、同じような内容の電話を受けました。いずれも猛烈な苦情です。電話の主は、双方とも中年の女性。受話器を取り上げた瞬間、『恐山!』と鼓膜が破裂するかと思うほどの叫び声が聞こえてきました。
『ダメじゃないの、あんなイタコさん置いといちゃ!』
『いや、我々は……、関係ないのですが』
『置いとくだけでダメよ!』
 と、聞く耳を持ちません」

 結果として、クレーム処理係まで務めざるをえないのである。

死後の世界

 はたしてイタコさんの言うように死後の世界はあるのか。この大きなテーマについて、南氏によれば「答えない」というのがブッダの時代からの公式見解で、それを仏教では「無記」と呼ぶのだという。

 ただ、それでもイタコさんをめぐる不思議な話があるのは事実らしい。南氏が紹介しているのは、ある年の夏、カナダ人観光客とイタコをめぐるエピソードだ。降霊術の話を聞いて興味を持ったこの男性は、興味本位でイタコさんを待つ行列に並んだ。
 冷やかし半分なので、最初はニヤニヤしていたという。

「余裕の表情を浮かべ、ニヤニヤ、ニヤニヤ。それがそのうちに黙ってしまい、真剣な表情になった。すべてが終わり小屋から出てきたそのカナダ人は、号泣していたようです。
 笑っていたはずのカナダ人が泣いて出てきたから、見物人たちはみんな不思議に思って、同席していた通訳に『ちょっと、あの人どうしたの?』と聞いたそうです。
『このおばあさん(イタコのこと)は、死んだ僕のママに違いない』
 そうカナダ人は言って泣いていたそうです。
『このおばあさんと今日初めて会ったのに、彼女は僕が生まれた家の間取りを知っていた。その家で、僕とママしかいないときに起こったことも知っていた。あの人は僕のママだ』」

 こういう「不思議な話」があるのは事実だ。しかし、南氏は恐山が霊場として1200年もの間続いてきたのは、「霊が降りてくる場」だからではない、という。

 それではなぜ――より本質的な話は次回に譲ることとしよう。

デイリー新潮編集部