サッカーの王様・ペレはなぜ愛され続けるのか 「国民的な落胆」を救った英雄の素顔(小林信也)

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 日本のスポーツ界で長嶋茂雄は特別な存在だ。あの落合博満がどんなに数字で上回っても長嶋を超える国民的存在にはなれないと葛藤した……、それは戦後の復興と天覧試合の一打に象徴される長嶋の活躍と同時代を生きる人々の気持ちの相乗作用にあった。

 サッカー界で「王様」と呼ばれるペレは一体、なぜ愛され続けるのか?

 1930年、ワールドカップが初めて開催されたころ、ブラジルはまだ世界のサッカー強国ではなかった。第1回大会に参加はしたが、1次リーグで敗れた。第2回イタリア大会もスペインに3対1で敗れ、決勝ラウンドに進めなかった。第3回フランス大会でようやく3位に入り、国中が沸いた。そしてブラジルは、50年第4回大会の開催地に名乗りをあげた。政府はリオデジャネイロに世界最大20万人収容のマラカナン・スタジアムを建設する。戦力も充実、49年のアメリカ・カップ(南米選手権)ほか数々の国際大会を制し、優勝候補に挙げられた。国民の期待が高まる中、ブラジルは順調に勝ち上がり、ウルグアイとの決勝に進んだ。マラカナン・スタジアムは20万近い大観衆で膨れ上がった。

 その日のことを、ペレが『ペレ自伝』に記している。

〈わたしは9歳でした。決勝戦が行なわれた7月16日、父は友人たちを家に招いてパーティーを開きました。(中略)試合開始当初から家のなかはラジオの周りに群がる大勢の大人たちでいっぱいでした。わたしは中継をずっと聞いていたわけではありません。まだ幼かったわたしは、表に出てボールを蹴っているほうが楽しかったのです。(中略)残り時間が約10分となったところでウルグアイが逆転のゴールを決めました。わたしは試合が終了した頃に家のなかに入っていったのですが、みんな黙り込んでいました。わたしは父に近づいていって、どうしたのかと訊(たず)ねました。「負けたんだよ」と返事する父はまるで抜け殻のようでした〉

 父はかつて強豪チームに所属、ヘディングを得意とするセンターフォワードだった。落胆する父を励ましたくて、ペレは呟いた。

「いつかぼくがブラジルをワールドカップで優勝させるよ」

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