「村田兆治 逮捕」で世の中の反応が二つに分かれるワケ

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奇跡の復活

 しかし、約2年の必死のリハビリを経て1984年終盤に復帰。「伝説」を作ったのは翌シーズンである。

 1985年のシーズン、村田氏は開幕から11連勝という当時のプロ野球記録を樹立した。日曜日に登板しては勝つことから「サンデー兆治」というニックネームも得ることとなる。89年には200勝を達成し、最優秀防御率も獲得。

 この復活を支えたのは、猛練習だったと本人は語っている。

「僕は昔からそうだけど、とんでもない練習をする。今日は2時間走ると決めたら、靴が破けても走り続けるし、腹筋だって背筋だって、若い選手でもまねできないほどする。

 ごくマレに、僕の練習に挑戦してくる若い選手もいるけど、そうなると、僕は、またそれ以上やってしまう。

 結局、『村田さんは特別だ』となってしまう。

 だから若い選手が育たないのかもしれないが、何だって負けたくない、というコケの一念なんです」

 その特別さをわかりやすく示すのは、村田氏の引退試合での投球だろう。10月13日の対西武戦。すでに優勝を決めている西武の森祇晶監督は、「村田に失礼だから」といって、主力選手を並べたオーダーで臨んできた。

 これに対して村田投手も負けずに熱投し、結果、引退試合を完封で飾ったのである。

昭和生まれの明治男

 野球に対するストイックな姿勢は引退後も変わらず、たまに人前で投球すると、年齢にふさわしくない剛速球を放り、周囲を驚かせ続けた。

 こうした村田氏の野球人生はファンにとっては尊敬の対象となり続けた。

 それゆえ、昔を知る人ほど「信じられない」と口にしたのだろう。

 引退の年、夫人が村田氏を評した「昭和生まれの明治男」という言葉が、その年の流行語大賞に選ばれた。痛みに耐え、猛練習を続け、完投、真っ向勝負を理想とするその姿にピッタリということで、多くの共感を得たのである。

 もっとも、当時、夫人は、村田氏について「家庭では亭主関白でもありませんし、平成男です」と語っていた。

 その平成も終わり、令和となったのだが、今回は「明治男」の面がつい出てしまったということなのだろうか。

デイリー新潮編集部

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