【鎌倉殿の13人】陰謀で墓穴、2年で失脚した北条時政 「畠山重忠の乱」「牧氏事件」で1番得した人は
「泉親衡の乱」
義時本人は2代執権に就く。「牧氏事件」などで常に政子の側に立ったことが大きかった。なにより、政範が若くして他界せず、時政と牧の方が権力に目がくらんでいなかったら、状況は全く違ったはずだ。
もっとも、義時にも徐々に驕りが見え始める。1109年11月、実朝に対し、自分の郎従(従僕)には武士に準ずる扱いをしてほしいと申し入れた。特権の要求である。
しかし、実朝が突っぱねたため、あきらめる。武士は将軍である実朝と主従関係を結んだ者。義時の郎従はそうではないから、無茶な要求だった。
同じ11月、義時は守護には職務怠慢があるとして、終身制度を廃し、定期交代制度を敷こうとする。
だが、既得権を奪われる有力御家人たちの強い反発があり、これも断念した。御家人たちの気持ちを考えたら、予想できた結末だった。
その後も義時が御家人を締め付けようとする動きが続いた。御家人の間で義時への不満が徐々に高まっていった。
そんな空気を背景に計画されたのが「泉親衡の乱」(1213年2月)である。信濃国(現・長野県と岐阜県中津川市の一部)の御家人・泉親衡たちが謀反を起こそうとした。義時を討ち、実朝に代わる将軍を擁立しようとしていた。
衝撃的なのは計画に関わっていた者の数。首謀者とされたのは130余人。関与者は約200人もいた(『吾妻鏡』)
この謀反計画には和田義盛の息子である義直、義重と甥の胤長も関与していた。その中で関わりが深かったとされた胤長への義時の仕打ちは非情とも言えた。
胤長は縄で縛られ、一族の前に出された。武士なら見られたくない姿だ。その後、陸奥国岩瀬郡(現・福島県岩瀬郡)への流罪となり、これも厳しい処分と言えた。
腹を立てた義盛は日ごろの恨みもあったので、「和田合戦」(同5月)を起こす。義時を討つのが目的だった。だが、兵力が違う。義盛は僅か2日で敗れた。
義盛の死によって、義時は義盛の侍所別当(軍事・警察を担った組織)の座を手に入れた。権力をより強固なものにした。
北条家の権力好きは代が変わっても同じだったようだ。
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