【鎌倉殿の13人】陰謀で墓穴、2年で失脚した北条時政 「畠山重忠の乱」「牧氏事件」で1番得した人は
「かわいそうでならない」
翌6月22日、早くも重忠の討伐が行われた。『吾妻鏡』によると、まず、やはり時政の女婿である稲毛重成(村上誠基)が、重忠の息子・重保を鎌倉に呼び寄せた。そして三浦義村(山本耕史)が由比ヶ浜で討った。
同じ日、今度は鎌倉に向かっていた重忠勢が、進軍してきた幕府軍と武蔵国二俣川(横浜市旭区付近)で出くわした。重成は重忠にも鎌倉に来るよう書状を送っていたのだ。
重忠は幕府軍と遭遇した場に陣を敷いた。「鶴峯の麓」である。現在の横浜市旭区鶴ケ峰付近だった。ここで重忠は重保の謀殺を知る。
重忠勢は次男の重秀ら僅か134騎。従者の本田近常らが重忠に対し、「聞くところによると、討手は幾千万騎とも知れません。とても対抗できません」(『吾妻鏡』)と訴えた。
さらに近常たちは本拠・畠山郷に引き返し、討手を待ち受けるべきだと主張した。だが、「武士の鑑」とも呼ばれた重忠はそれを拒む。
『吾妻鏡』によれば、重忠は重保が謀殺された後になって本拠を顧みることは出来ないと説いた。また重忠はこうも言った。
「家を忘れ、親しい者を忘れて戦うのは将軍(自分)たる者の本来の志」(『吾妻鏡』)
結局、兵力で圧倒的に劣る重保勢は約4時間で敗れた。『愚管抄』によると、重忠の最期は自害。討ち取られたくなかったのだろう。
翌6月23日、義時は鎌倉に戻り、重忠が従えていたのは百数十騎に過ぎなかったと時政に告げる。さらに義時はこう言った。
「重忠が謀反を企てていたとは偽り。讒言によって殺されたので、かわいそうでならない」(『吾妻鏡』)
時政は何も答えられなかった。
重忠は冤罪だったという話が御家人の間で瞬く間に広まった。騙された御家人たちは憤り、重忠と重保の父子を鎌倉におびき出した時政の女婿・重成を討った。
時政は旗色が急に悪くなった。そこで時政は牧の方と陰謀を企てる。12歳だった実朝を将軍にした時と同じく、自分たちにとって都合のいい幕府にするため、朝雅を新将軍としようとした。実朝は殺すつもりだった。「牧氏事件」である。
朝雅はただの女婿ではなかった。頼朝と同じ清和源氏の流れを汲み、頼朝の猶子(実子ではない子供で、養子と違って相続権はない)だった。また、京都守護(京の治安維持と朝廷との連絡などを担当)をしており、後鳥羽上皇(尾上松也)に気に入られていた。
しかし、計画は実行前の同7月に露見してしまう。『愚管抄』によると、時政邸にいた実朝は義村が救出した。さらに義村は将軍命令として時政を出家させ、地元の伊豆国北条(現・静岡県伊豆の国市)に帰した。牧の方も一緒だった。
『吾妻鏡』にはこう記述されている。
「牧の方が奸謀をめぐらし、平賀朝雅を関東の将軍として、現在の将軍家を排除し申し上げようとしているとの風聞があった」(『吾妻鏡』)
もっとも、『愚管抄』などは時政と牧の方の共謀説を取っている。こちらのほうが現実的だろう。
『吾妻鏡』はこうも書いている。陰謀が発覚したのと同じ日のことだ。
「丑の刻に時政は急に出家された」(『吾妻鏡』)
丑の刻は午前2時前後(午前1時から3時までの間)。身の危険を感じていたのか随分と慌てていたようだ。この時、時政は68歳だった。
重忠の死と時政の追放。これによって最も得をしたのは義時である。
有力者の重忠を失った武蔵国の国司(治安維持と武士の統制などを担当)と守護(治安維持や武士の統制を担当)は信頼する弟・時房が務めることになった。義時は同国に影響力を持てた。
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