自粛という私権制限を喜んで受けれ入れた人々 何もかも2019年以前に戻す必要はない?(古市憲寿)

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 新型コロナウイルスの流行から、世界中が日常を取り戻しつつある。だが「日常」は誰にとっても幸せとはいえないようだ。特に他人と会うことが苦手な人は、憂鬱な日々が戻ってきたと嘆いているのかもしれない。

 実際、リモートでけんかをしたり、誰かをいじめるのは難しい。関係が険悪になればブロックしてしまえばいい。昔の村八分はリアルブロックといえるが、それでも火事と葬式は例外とする建前があった。しかし生活インフラを共有していた村社会と違い、ネット社会で他人と距離を置くのは比較的簡単だ。

 子どものいじめやスクールカーストは、「学級」という制度や、「教室」という軟禁施設が元凶だといわれる。毎日、朝から夕方まで子どもを閉じ込めるのだから、そりゃ問題も起こるだろう。一方で、通信制学校ではいじめが起こりにくい。言い換えれば、いじめに発展するほど、濃密な対人関係が発生しないともいえる。

 無意味な規制が撤廃され、社会経済活動を活性化させるのは大事だ。同時に思うのは、何もかもを2019年以前に戻す必要はないということ。リモート会議やオンライン診療は便利だし、会わなくても済む用事は多い。

 漫画家のカレー沢薫さんいわく「コロナだってたまたま『不要不急の外出は避け、3人と会うな』って方針だったからよかったけど、『全員外に出て3人組を作れ』って政策だったら詰んでたぞ」(「月刊!スピリッツ」9月号)。

 確かに、外出自粛という形で私権制限をするのと同じくらい、無理やり他人との接触を求める国家というのは気味が悪い。

 戦中の隣組、戦後の町内会や民生委員など、国家は統治の一手段として地域共同体を活用する。実際、災害が起こった時など、行政と住民の協力関係が構築できる地域ほど、被害が少なかったりする。

 だが、それが強制となった場合は話が別だ。この国で「不要不急の外出自粛」という私権制限が大きな反発を生まなかったのは、現代人のマインドとマッチしていたからという可能性もある。少なくない人が、外出や人と会うことに疲れていた。だから国が主導して自粛を求めてくれてありがたかった、というわけだ。

 もしもカレー沢さんの言う「全員外に出て3人組を作れ」という政策が実施された場合、外出自粛以上の反発を生むのは必至だろう。幸か不幸か、デジタル技術を活用することで、国家が個人を容易に管理できる環境は整いつつある。

 もう少し技術が進めば、ネット社会同様、リアルな街でも他人をブロックできるようになるかもしれない。互いの位置情報を共有し、接近すればアラートが出るようにすればいい。両者の同意が必要だが、ひどい別れ方をしたカップルなどには需要があるだろう。

 感染症流行時も、個人ごとに外出可能時間とエリアを細かく設定して、社会的に人流を管理するなんて時代が来る可能性もある。究極の管理社会は、ある種の快適さを我々にもたらしてくれるのだろう。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年9月1日号掲載

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