【鎌倉殿の13人】「源実朝」の実像 28歳で20歳の甥「公暁」になぜ暗殺されたのか

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和田合戦勃発

 どうして義盛の一族が幕府を襲おうとしたのか。それは「泉親衡の乱」から約3カ月後の1213年5月、義盛が義時を倒そうとして「和田合戦」を起こし、敗れ去ったからだ。

 事の発端は「泉親衡の乱」に義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関与していたことだった。3人は捕らえられた。だが、67歳の侍所別当・義盛は22歳の実朝に対し、赦してやってほしいと頼む。同3月8日、大倉御所でのことだ。

 義盛は自分が長く幕府に貢献したことなどを訴えた。その甲斐あり、願いは一部聞き入れられ、息子の義直と義重は赦免された。

 ところが、義盛は翌9日も御所に来た。今度は大勢の親族まで一緒。甥の胤長も赦してもらうためだった。

「和田義盛が今日また幕府御所に参った。一族98人を引き連れ――」(『吾妻鏡』)

 しかし胤長は赦されなかった。息子2人とは違い、謀反の計画に深く関わっていたからである。

 この日、胤長は親族98人の前に姿を現した。連れてきたのは義時。胤長は縄に縛られた哀れな格好だった。これに義盛ら親族は憤怒。義盛は翌日以降、幕府に出仕しなくなった。

 胤長は同3月17日、陸奥国岩瀬郡(現・福島県岩瀬郡)への流罪になった。それを悲しんだ胤長の6歳の娘は病気になり、同21日に死んでしまう。そのうえ、義時は胤長の屋敷を自分のものにした。義盛の怒りは頂点に達した。

 同5月2日夕、義盛は挙兵し、御所に火を付けた。実朝や政子らはその前に逃げており、難を免れた。そもそも義盛の憎悪は義時に向けられており、実朝を討つつもりはなかった。

 だが、翌3日には義盛勢が早々と負けた。義盛は敗死。数で圧倒的に上回る義時に勝てるはずがなかったのだ。一夜明けた4日、鎌倉に近い片瀬川沿いには、義盛勢として戦った武士たちの首が234も並べられた。

 この戦いで義盛と同じ三浦一族の三浦義村(山本耕史)は義時に付いた。ますます義盛に勝ち目はなかった。

公暁はなぜ実朝を暗殺したのか

 善哉の話に戻りたい。政子による特別扱いは続いた。政子は1205年12月、7歳だった善哉を15歳だった実朝の猶子にした。猶子とは実子ではない子供。養子と違い、家督や財産の相続権はないものの、家族の扱いを受ける。

 約6年後の1211年9月、善哉は出家。近江国(現・滋賀県)の園城寺で修行生活に入り、公暁の法名を受けた。1217年6月には鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に就く。高い地位であり、これも政子の配慮だった。

 だが、政子の気遣いは公暁に届いてなかった。1219年1月27日、公暁は凶行におよぶ。『愚菅抄』によると、鶴岡八幡宮に拝賀に訪れた実朝に斬りかかり、転倒させ、首を切り落とした。斬りかかった際には「親の仇はこう討つのだ」と言った。

 直後の公暁は実朝の首を抱えたまま、鶴岡八幡宮の裏に住む僧侶・備中阿闍梨宅を訪ねる。飯を食った。そして自分の乳母夫である三浦義村に使者を出し、こう伝えた。

「今、将軍職が空いている。自分が東関(関東)の長を務める」

 公暁の目的は頼家の仇討ちだけでなく、権力を握ることだった。しかし、その夢は破れた。義時の意を受けた義村が公暁を討った。

 実朝28歳、公暁20歳の時の悲劇だった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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