【鎌倉殿の13人】「源実朝」の実像 28歳で20歳の甥「公暁」になぜ暗殺されたのか

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文人肌の将軍、実朝

 13歳の実朝が正室に迎えたのは1歳年上の信子。後鳥羽上皇の外叔父・坊門信清の娘だった。文人肌の実朝にはお似合いの相手と言えた。

 実朝は和歌が好きだった。武芸に熱心だった頼家とは違った。結婚から約5カ月後の1205年4月には『吾妻鏡』に実朝と和歌に関する話が初登場する。12首の和歌を詠んだとある。信子との結婚は実朝の和歌好きに拍車をかけたらしい。

 実朝の和歌への取り組みは趣味の域を超えていた。歌集『金槐和歌集』の編纂までしている。1209年7月には公卿で歌人の藤原定家に対し、自分の和歌30首の批評を求めた。

 将軍としての政務が心配になるが、仕事も熱心。18歳になった1209年には将軍親政(将軍が自ら政治を行うこと)を始めた。

『吾妻鏡』によると、同年4月には陸奥国葛岡(現・宮城県大崎市)の新熊野神社の僧侶と地頭(荘園・公領の管理支配職)が対立した訴訟を裁決した。ほかにも数々の政務の記録が残っている。

 文人肌で仕事熱心。そんな実朝は御家人たちの間で評判が良かった。1205年の「牧氏事件」を機に、時政から執権の座を受け継いだ義時に毅然とした態度で接したのも実朝評を高めた。

 実朝の義時への向き合い方を表す格好のエピソードがある。1209年11月、義時は実朝に対し、自分の郎従(従僕)には武士に準ずる扱いをしてほしいと申し入れた。特別待遇の要求だ。しかし実朝はこれを突っぱねた。

 武士は将軍である自分と主従関係を結んだ者。義時の郎従はそうではないからだ。実朝は幕府内の秩序の維持を重んじた。義時は黙って引き下がった。

 信子との夫婦関係は円満だった。信子と政子(小池栄子)と関係も良好。揉め事続きだった頼家とは大違い。実朝の憂いは1208年に罹った疱瘡(天然痘)の痕が顔に残ったことと、信子との間に跡継ぎが出来なかったことくらいだった。

再び荒れ始める鎌倉

 もっとも、平穏は長く続かないのが鎌倉の法則。1213年2月、信濃国(現・長野県と岐阜県中津川市の一部)の御家人・泉親衡による謀反の計画が発覚する。「泉親衡の乱」だ。義時を討ち、実朝に代わる将軍を立てようとしていた。その将軍候補は12歳になっていた千寿丸だった。

 この謀反の首謀者とされたのは130余人。関与者は約200人いたと『吾妻鏡』には書かれている。「鎌倉殿――」の前回第31話で描かれたのは1203年の鎌倉で、当時は義時を憎んでいる者がほとんど見当たらないが、僅か10年後の義時は数多くの御家人たちから恨みを買っている。

 謀反の事前発覚によって千寿丸は出家させられ、栄実となった。しかし、2年後の1215年には和田義盛(横田栄司)の一族に担がれ、幕府を襲おうとした。これが幕府に露見したため、自害した。

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