【鎌倉殿の13人】「源実朝」の実像 28歳で20歳の甥「公暁」になぜ暗殺されたのか

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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は前回第31話で「比企の乱」を描いた。北条一族が比企一族を滅ぼした。これによって鎌倉幕府将軍は比企家側の源頼家(金子大地)から、北条家側の源実朝(幼名・千幡、柿澤勇人)に替わる。実朝の時代になれば鎌倉から争いが消えるのだろうか。史書から探る。

実朝の時代が到来

「比企の乱」が起きたのは1203年9月2日。その2日前の同8月31日、2代目将軍の源頼家(金子大地)は病状が悪化したため、死を覚悟して出家した。天台宗僧侶・慈円による史論書『愚管抄』にはそう書いてある。

 出家した時点で頼家は将軍ではない。頼家は後継者として自分の長男・一幡(白井悠人)を指名した。比企能員(佐藤二朗)の娘で側室の若狭局(山谷花純)との子供だ。

 だが、同9月7日に後鳥羽上皇(尾上松也)から3代目将軍に任じられたのは頼家の弟・千幡。同時に上皇から「実朝」と命名された。すべては北条時政(坂東彌十郎)の筋書き通りだった。

 当時の実朝はまだ12歳で後見人が不可欠。時政はほどなく初代執権(将軍の補佐)に就き、幕政を牛耳る。

 一方、まだ5歳だった一幡は北条義時(小栗旬)の手勢によって殺された。『愚管抄』によると、「比企の乱」から約2カ月後の同11月のことだった。

 北条家は頼家も生かしておかなかった。翌1204年7月、幽閉先だった伊豆国修善寺(現・静岡県伊豆市修善寺)で暗殺した。

生き残った頼家の3人の男子

 ただし、頼家の子供が皆殺しにされたわけではない。頼家は一幡のほかに3人の男子がいたが、全員生かされた。比企一族と関係がなかったからだ。

 3人は正室・辻殿(北香那)との間に生まれた善哉(寛一郎)、側室が生んだ千寿丸と禅暁である。この側室は「鎌倉殿――」に登場していないが、源頼朝(大泉洋)の秘書的な立場だった僧侶・昌寛の娘だ。

 頼朝は辻殿の子供を「頼家の跡継ぎに」と考えていた。このため、政子(小池栄子)は善哉には特に目をかけた。まず鎌倉の鶴岡八幡宮の別当(長官)・定暁の弟子にした。

 千寿丸は頼家の死後、尾張国(現・愛知県西部)の武士・尾張中務丞に預けられた。禅暁は出家し、京の仁和寺で修行生活に入った。

 一方、3人の叔父である実朝は頼家の死から約半年後の1204年12月、結婚する。幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、当初は有力御家人・足利義兼の娘と結ばれるはずだったが、この話は流れた。

 実朝が武家の娘との結婚を嫌がったからだ。武家の比企家と姻戚となったことで、悲惨な末路を辿った頼家が念頭にあったようだ。

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