沖縄激戦地で発掘された「存在しない名字のハンコ」 ついに遺族との接触に成功

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「似たような話が過去に」

 戦没者の遺骨や遺留品、縁(ゆかり)の品を手渡すため、この20年ほどで100組以上の遺族と出会った。大切な人の帰還を待ち望む遺族を訪ねると、一家の大黒柱を失った悲しみと、辛苦の人生を聞き取ることになる。

 父の戦死後、母が自分と10歳も離れていない父の弟と再婚、自らは丁稚奉公で幼い弟らの暮らしを支えた長男。兄弟の男子4人全員が徴兵され、息子たちの帰りを待つ母を助けるため、胸を病みながらも働き続けて早逝した長女。

 一人ひとりの戦没者の生き様や人となり、その帰りを待ち続けた遺族の想いや生涯を知れば知るほど、沖縄戦を日付や数字で学ぶだけの歴史に留めておけない、との思いが募る。ましてやその犠牲者らが後世、単に「捨て駒として犬死にした」などと評されるのは忍びなく、義憤が沸き上がるのだ。それが、私たち夫婦を突き動かす原動力になっている。

 地元の方の墓や拝所がある、亜熱帯の神聖な森。そこに人知れず残る旧日本軍の陣地壕に埋もれていた1本のハンコ。それを77年ぶりに手にしたのは、朝日新聞の後輩記者S君だった。だが、彼が取材を進めようと職場の上司に相談したら、「似たような話が過去に掲載されたことがあるのでボツ」と一蹴されたらしい。遺留品の持ち主にそれぞれの人生があり、待っていた家族もいるはず。それを“似たような話”とは……。

大丈夫か、朝日新聞

 さらに、前編の記事で私は、「職場に自由がない」というS記者の愚痴を載せたが、そのことを上司に問われたらしく、S君本人が訂正を申し入れてきた。いわく、「独自取材に行かせてもらえず、企画が通らない」時期があったことや、「上司の『付和雷同』や『事なかれ主義』などで萎縮している」趣旨を話しただけで、「職場に自由はなくはない」そうだ。

 斜陽化が進む新聞業界。速報性ではインターネットにかなわない時代だからこそ、深く掘り下げた取材から紡ぐ物語を大切にしてほしい。私が12年前に退職した全国紙。リベラルな主張とともに、反戦平和を訴えてきた論調が、多くの読者に支持されてきたはずだ。それなのに……大丈夫か、朝日新聞。

 ウクライナで進行中の苛烈で凄惨な地上戦と、かつて日本が体験した戦争。時代や構図は違えどもその惨烈さは同じだ。が、その本当の悲劇を知る旧日本兵たちは鬼籍に入り、自らの家系に戦没者がいることを知らない遺族も増えている。日本人だけで300万人以上が亡くなった先の大戦は、時間の経過と共にどんどん風化が進む。

 これでいいのか。私たちにできること、伝えることはもっとないのだろうか。そんな想いに駆られながら、戦没者とその遺族を追い求める旅を続けている。

浜田哲二 (はまだてつじ)
元朝日新聞カメラマン。1962年生まれ。2010年に退職後、青森県の白神山地の麓にある深浦町へ移住し、フリーランスで活動中。沖縄県で20年以上、遺骨収集を続けている。

浜田律子(はまだりつこ)
元読売新聞記者。1964年生まれ 奈良女子大学理学部生物学科・修士課程修了。

週刊新潮 2022年7月7日号掲載

特別読物「『沖縄戦』激戦地で発掘 『ハンコ』が導く遺族探しの旅 DNA鑑定で『帰還せぬ遺骨』を待つ人のもとへ」より

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