沖縄激戦地で発掘された「存在しない名字のハンコ」 ついに遺族との接触に成功

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「祀られていらっしゃいます」

 わらにもすがる思いで、すぐ隣の北海道護國神社(小野雄一・宮司)を訪ねた。同神社には、戊辰の役から大東亜戦争に至るまでの、北海道、樺太関係の国事殉難者6万3159柱(昨年6月現在)が祀(まつ)られている。その御祭神の一人に、佐藤岩雄さんの名がある可能性に賭けて。

 すると、「祀られていらっしゃいます。ご遺族は弟・武さんで、連絡先は旧静内町になっていますね」とのこと。灯台下暗し! それでも、大きな手掛かりに胸が高鳴る。さっそく田畑印章房に「静内に弟さんがいるそうです」と一報を入れ、旭川から約250キロ離れた新ひだか町へ取って返す。

 私たちの活動は、ほぼ援助のないボランティアなので、節約のため移動には自家用車を使っている。この数日間、広い北海道の陸路を走り詰めで、夫婦ともにクタクタだった。その道中、今度は田畑さんから、「弟・武さんは10年以上前に亡くなっていましたが、その息子さんと連絡がつきました。会ってくれるそうです」との朗報が飛び込んできた。ハンドルを握る哲二が、「やったぁ!」と叫ぶ。疲れが一気に吹き飛んだ瞬間だった。

「家族をとても大切にする伯父だった」

 佐藤岩雄さんの遺族は、弟・武さんの長男・秀人さん(64)。私たちが待ち受ける田畑印章房へ駆け付け、「伯父のハンコが見つかったと聞きましたが、本当ですか」と驚きと戸惑いを隠せない様子。「岩雄が沖縄で戦死したことは祖母や父から何度も聞かされていましたが……」と遠い目で呟く。

 秀人さんによると、戦前の佐藤家は、炭焼き作業中の事故で父親が働けなくなり、生活が困窮。1929(昭和4)年生まれの末弟・武さんは、養子に出されたという。だが、一度は家族から引き離された弟を岩雄さんは、「自分が稼ぐから」と連れ戻した。以来、「父は年の離れた兄を恩人として慕ったそうです」と秀人さん。

「自分が稼ぐ」との言葉通り、出征前の岩雄さんは、国鉄の枕木の敷設や線路に敷く砂利を河原で採取する土木関係の仕事に従事。一家を支えるため、どんな重労働も厭わなかったという。自らも妻をめとり、一人娘にも恵まれたが、召集される。沖縄戦の末期、戦火に斃れた。

「家族をとても大切にする伯父だったと思う」と秀人さん。だが、戦死の報を受けた後、生活苦などから残された妻子は離散。幼かった一人娘は武さんが引き取ったが、成人後、死去している。秀人さんは、

「出征した兄を待ち続けた父・武は、遺骨や遺品が何も還らないのが、よほど辛かったのでしょう。旅行に行く知人に頼んで手に入れた沖縄の土を、佐藤家の墓に納めたと聞きました」と堰を切ったように話した。

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