黒人差別、ナチスと闘ったスプリンター 伝説となったライバルとの五輪決勝(小林信也)

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下見が試技に

 ベルリンに到着すると、ジェシーの不安は少し薄らいだ。表面上、うわさに聞いていた厳しい弾圧を目にすることはなかった。華やかなお祭りムードで外国人選手たちは迎えられた。何より戸惑ったのは、選手村に黒人専用の部屋がなかったことだ。アメリカなら、白人と部屋は別。バスに乗る時も黒人は後ろの席と決まっていた。それがベルリンでは平等だった。水面下で続く厳しい弾圧や、ナチス当局とアメリカ五輪委員会の冷徹な駆け引きなどジェシーは知る由もなかった。

 100メートルでまず優勝し、ジェシーは走り幅跳びに臨んだ。最大のライバルはドイツのルッツ・ロング。地元の期待を一身に集めるロングはヒトラーの偉大さを体現するため、必ずや金メダルを取る使命を担っていた。

 ここでジェシーは思いがけないアクシデントに見舞われる。100メートルを終えてすぐ駆けつけた走り幅跳びの砂場で、踏切板と着地する目標地点を眼と足で確かめた。その時、赤い旗が上がった。ジェシーは動揺した。下見のつもりが1回目の試技とみなされ、ファウルと判定されたのだ。予選は3回。動揺を抑えきれないジェシーは2度目も踏切板を踏み越えた。残るはあと1回、厳しい状況に追い込まれた。

 2016年に公開された映画「栄光のランナー 1936ベルリン」には、史実に基づいたジェシーの葛藤が描かれている。とくに印象的なのが走り幅跳びのシーンだ。ジェシーのピンチに救いの手を差し伸べたのはライバルのロングだった。映画では、ロングがジェシーを見やりながら、踏切板のかなり手前に小さなタオルを目印に置く。

(このくらい手前で跳んでもキミは大丈夫!)

 というメッセージだった。ライバルの助言に励まされ、勇気を取り戻したジェシーは踏切板の遥か手前で踏み切って決勝進出を決めた。

 おそらくタオルを置いたのは映画的な演出。実際には「焦らなくても、君の実力なら踏切板を気にせず跳んでも予選ラインは越えられる」とささやいたといわれる。

 さらに3回のジャンプで争う決勝は名勝負となった。ロングが1回目に7メートル54を跳ぶと、ジェシーは7メートル74。2回目、ロングが7メートル87で再びトップに立った。ジェシーも負けなかった。7メートル94で逆転。ロングが3回目をファウルした時点でジェシーの2個目の金メダルが決まった。ジェシーは3回目で8メートル06のオリンピック新記録をマークした。ロングとジェシーは、二人で並んで場内を一周、11万人の大観衆の歓呼に応えた。人々は、人種を超えて素晴らしい勝負を展開した二人のアスリート、そしてジェシーの窮地を救ったロングのスポーツマンシップに胸を打たれた。

ナチスの賄賂で代役に

 200メートルにも優勝、目標どおり3個の金メダルを獲ったジェシーは、予定外のレースに出ることになった。

 ナチスの宣伝相ゲッベルスが400メートルリレーでドイツの勝利を画策し、交渉段階で賄賂を握らせていたアメリカの役員に圧力をかけた。結局、アメリカはリレー・チームから2人のユダヤ人選手を除外した。代わって出たのがリレー未経験のジェシーだ。不安の中、ジェシーはバトン・パスも無難にこなし、アメリカは優勝した。こうしてジェシーは想定を上回る4個の金メダルに輝いたのだ。

 ロングはその後、第2次世界大戦に従軍し、前線に送られて戦死する。もしあの日、ナチスの英雄になっていれば、そのような処遇をされただろうか。潔く戦ったロングには幸福な人生は訪れなかった。勝ったジェシーも差別社会で苦難の人生を歩んだ。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2022年7月14日号掲載

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