アイドルの「成長物語」、原点は伝説の番組「スター誕生!」だった 「完成品」より「下手な人」を選んだ阿久悠の先見性

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「青い性」路線

 山口百恵の「第1期」は、1973(昭和48)年のデビュー曲「としごろ」から12作目のシングル「愛に走って」までで、作詞家の千家和也と作曲家の都倉俊一を中心に制作された。デビュー曲「としごろ」は、桜田淳子を意識した明るく軽快な、子どもらしい楽曲だったが、これは山口の重くクールなイメージには合っておらず、明らかな失敗作となった。そこで、もっとストレートに山口の「個性」を打ち出すべく、「青い性」路線と呼ばれる企画が始動される。

 セカンド・シングル「青い果実」では「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ いけない娘だと 噂されてもいい」と、清純であどけない少女が性に出会う場面が歌い上げられた。この時、彼女は14歳。以降、「禁じられた遊び」「春風のいたずら」で山口はほかのアイドルにはない個性を確立し、「あなたに女の子の一番 大切なものをあげるわ」と歌う「ひと夏の経験」で「青い性」路線はピークを迎えた。ちなみに、この時でも彼女はまだ15歳である。

「可愛い悪女」へ

 次なる展開として、酒井は作詞家の阿木燿子・作曲家の宇崎竜童夫妻を迎え、成長物語の「第2期」をスタートさせる。その第1弾が、1976(昭和51)年の13枚目のシングル「横須賀ストーリー」だった。この曲で彼女は、愛されていないとわかっていながら欲望に身をゆだねる大人の女性を演じる(ただし本人は17歳)。さらに、「イミテイション・ゴールド」や「プレイバックPart2」では、若い男に対して性的主体となる成熟した女性であり、高級車さえ運転しながら、男性に従属的でもある女性の姿が歌われた。こうした「可愛い悪女」ともいえる曲調は、1978(昭和53)年8月の「絶体絶命」まで続いた。だが、山口に恋人の影が見え隠れし、実際に俳優の三浦友和との「恋人宣言」がなされるに至り、「第2期」の路線は堅持が難しくなっていく。

「第2期」の途中、1977(昭和52)年10月に発表されたさだまさし作詞・作曲の「秋桜(コスモス)」で、山口は、忍耐と諦念の人生を送ってきた母とその娘を歌った。この母は、「日本における母のステレオタイプを完全に担った、哀しく弱く慈愛に満ちた母」であり、苦労するとわかっていながら娘を嫁がせ、自分と同じ人生を歩ませようとする残酷な母でもあった(小倉千加子『増補版 松田聖子論』)。

 こうして「嫁ぐ娘」や「ホーム(故郷・家庭)を求める悪女」といった主題が次第に強調されるようになると、山口は、谷村新司作詞・作曲の「いい日旅立ち」によって「第3期」に入る。かつて車で一人旅に出た悪女は、今度は「母の背中で聞いた歌を道連れに」、「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」と信じて再び一人旅に出ていった。

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