総合菓子メーカーからウェルネスカンパニーに生まれ変わる――太田栄二郎(森永製菓代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】

  • ブックマーク

「ミルクキャラメル」「チョコボール」「ハイチュウ」、そしてこれからの季節は「チョコモナカジャンボ」。数々のロングセラー商品を生み出し、120年以上の歴史を持つ森永製菓が、昨年、会社の新たな方向性を定めた2030経営計画を発表した。向かう先は「健康」。老舗企業はどう変わるのか。

 ***

佐藤 太田社長は1959年生まれですね。何月ですか。

太田 6月です。

佐藤 私は1960年の1月ですから、太田社長と同学年になります。しかも同じ時期に京都の同志社大学で学んでいた。

太田 ご経歴を見て、私もあれっ、と思いました。

佐藤 もっとも、私は1浪していますから、大学は1学年下です。

太田 当時はどこに下宿されていましたか。

佐藤 聖護院付近、平安神宮の裏です。

太田 私は下鴨神社の糺(ただす)の森のそばだったのですが、窓を開けると境内が見えて、そこでテレビドラマ「暴れん坊将軍」の撮影をやっていたんですよ。当時、あそこでよくロケをしていましたね。

佐藤 下鴨神社のすぐ北には、マクリン幼稚園があります。私は、同じ敷地にある賀茂教会にいまも通っています。

太田 そうでしたか。私は下鴨神社の西側にあるグリル生研会館という洋食屋さんでアルバイトをしていました。カレーの仕込みなど厨房に入って働いていたのですが、森永製菓に入社したのは、そこのマスターが大いに関係しているんですよ。

佐藤 この会社の関係者だったのですか。

太田 そうといえば、そうですね。私は食品業界と決めて就職活動をしていたわけではなかったのですが、森永製菓も受けるとマスターに言ったら、自分の中学生時代の同級生が森永製菓にいる、と言うんです。42歳のマスターと同じ年ですから20年先輩になりますが、人事部のマネージャーとして関西に来られたのが、その方だったんですよ。こんな偶然があるのかと思いましたし、マスターからも勧められて、この会社に決めたんです。

佐藤 そういう縁は大切ですよね。当時、同志社から東京の森永製菓に入るのは珍しかったのではないですか。あの頃、同志社の学生は、箱根の山の東側には何がすんでいるかわからないって言ってました(笑)。

太田 確かに同志社の先輩は4人しかいませんでしたね。

佐藤 私は埼玉県大宮出身で東京近郊ですから、森永のお菓子やアイスクリームになじんで育ちました。チョコボールのおもちゃのカンヅメが欲しくて、金や銀のエンゼルを集めようとするのですが、いつも銀3枚集めたくらいで息切れしてしまう。中身が知りたかったですね。

太田 おもちゃのカンヅメの中身は、社長になっても見せてくれない(笑)。もちろん取引先にお土産として持っていくなんてこともできません。ただカンヅメの容器だけは見せてもらえます。容器は数年ごとに変わっていて、この間までは「走る!キョロちゃん缶」だったのが、いまは「飛びたいキョロちゃん缶」になりました。羽をバタバタさせたり、しゃべったりするんですよ。

佐藤 あれは子供の頃の記憶に、強く焼き付いています。いまも子供たちを夢中にさせているのでしょうね。

次ページ:コロナ禍の中で「攻める」

前へ 1 2 3 4 次へ

[1/4ページ]