岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

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次兄からの電話

 それでは、手記の引用を始めよう。鹿児島市内の《中村アパート》に次兄から電話がかかってきた場面からだ。

《電話の呼び出しを受けた。「博多にすぐ出て来い」という。金をかき集め、汽車に飛び乗る感じで直行する。博多では“赤軍派中央軍”主催の集会が行われたのだが、のぞき見る感じで参加してみたけれど、お粗末だったことは否定できない》

 岡本は“赤軍派”の集会に不満を持ったようだ。他にも《名前のわりに中身のない集会》とこき下ろしている。

 集会が終わると、次兄の武が「ええヤツや」と、坂東国男(75)を紹介した。坂東は連合赤軍に加わり、1972年のあさま山荘事件で逮捕された。

 1975年、日本赤軍はクアラルンプール事件を起こす。マレーシアのクアラルンプールにあったアメリカとスウェーデンの大使館を襲撃、占拠し、52人を人質に取った。

 日本赤軍は坂東を含む7人の釈放を要求。日本政府はそれを受け入れ、坂東ら日本赤軍に参加の意思がある5人がリビアに出国した。その後、坂東は中東を拠点に、ヨーロッパや中国に入国した形跡が確認されている。現在の所在地や生死は不明だ。

よど号事件が勃発

 手記に戻ろう。坂東を紹介された後、岡本は次兄と翌朝まで深夜喫茶で話し込んだという。

《次兄の話が私に与えた影響は大きかったことを記憶している。カンタンにまとめれば、「左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること。世界赤軍が一国内革命運動に果たす役割は“前段階武装蜂起”であり、“前鋒”は玉砕覚悟である。二・二六(事件)をイメージすれば十分だ」ということだった》

 岡本は《「軍」という聞きなれぬ言葉にビックリし、「戦争」といわれてもハッキリしたイメージは出て来なかった》と率直に振り返っている。

 だが、《兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実である》という。

 世界赤軍を建設するにしても、とにかく金がない。岡本は鹿児島県の徳之島で土木工事に従事することを決めた。

 1970年3月、よど号ハイジャック事件が起き、次兄が北朝鮮に亡命した。だが、岡本は《南海の孤島》で働いていたため、《ハイジャックがそんなに現実性をもって感じられたのではなく》、ひたすら労働に従事していたという。

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