岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

単調な生活

《訓練所で最初に手にした銃は、チェコ製レボルバー「グラント」だった。ポートサイド(別名カール・グスタフ)も見せてもらう。次の日、ロシア製クラシニコフ、その翌日が、軽機ブレン》

 記事中の《クラシニコフ》は「AK-47」が正式名称であり、現在では「カラシニコフ」と表記されることが多い。

《バルベックでの生活は単調だった。朝食前と就寝前、一日に二回、一時間の体力増強体操をやるだけ。足の筋肉体操百回。腹筋七十回。背筋七十回。腕立て伏せ七十回。軽い側筋運動百回。腰の回転運動五十回。腕の屈伸運動百回。ポートサイドをバーベル代わりに使って腕力増強体操。逆立ちによって全体的均一化を図ったりした》

《体操が終わると茶を飲む。朝、ヤカンに入れた茶の葉は、一日中使った。奥平同志は、これが土地の習慣だといったが、味はまずかった。茶を飲み終わると朝食。料理は安田同志が作った。目玉焼きが得意で、私の記憶では、卵を食わなかった日はなかった。それに、ホブスというパン。ゼイトン(オリーブの実の塩漬け)。食後の後片付けは私の役目だった》

射撃練習

 単調だった生活に変化が起きたのは、岡本の記憶によると《四月十六日》以降だったという。

《三日ほど過ぎて、奥平同志が帰ってくる。帰ってくるなり、何もいわずにクラシニコフを握りしめて、しばらく考えごとをしている。その後、安田同志と二人で別室で話し込む。二日後、また奥平同志が出かけていくことになった。数日後に帰ってきたけれども、私は、まだ、何の話も聞いてない》

《翌日から、丸岡同志を加えて四名でクラシニコフの射撃練習を開始した。一人三発ずつ、四日間練習したように思う。丸岡同志の射撃のウデは、私より優れていた。射撃の水準は、四人全員が合格点をもらえた》

 丸岡同志とは、丸岡修(1950〜2011)のことだ。テルアビブ空港乱射事件には参加せず、1973年のドバイ日航機ハイジャック事件などに関わった。

 1987年に東京都内で逮捕。2000年に無期懲役が確定し、2011年に八王子医療刑務所で死去した。死因は心臓病だったという。

次ページ:岡本の涙と重信の寿司

前へ 3 4 5 6 7 次へ

[5/7ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。