岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

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あさま山荘事件の発生

《一九七二年一月下旬、京都からの使者が、「訓練された赤軍兵士」との接触手続のためにやって来た。それから数日を経て、「訓練された赤軍兵士」自身が鹿児島に現れた。彼らから旅行に関する指示、旅費などを受け取った。浅間山荘事件の余波も考えて(註=この時にはまだ、連合赤軍の凄惨なリンチ事件は発覚していない)、すぐ飛び立つことにした》

 記事中にある《連合赤軍の凄惨なリンチ事件》とは、1971年12月に起きた山岳ベース事件を指す。群馬県の山中に築いたアジトで、凄惨なリンチ事件が起きた。

 29人のうち12人が死亡。事件が発覚すると、多くの日本人が衝撃を受けた。そして警察の包囲網から逃走していた一部メンバーが引き起こしたのが、あさま山荘事件だった。

 一方の岡本は、羽田からバンクーバー、トロント、モントリオールと移動を続けていた。だが“旅”の内容には、かなりの不満を覚えていたようだ。

《一刻も早くベイルートに着きたかった。日本と外国の習慣の違いもあるのだろうが、ホテルも飛行機もサービスが良いとはいえなかった。外国人の目には、私は小学生程度のガキに見えるらしく、その結果、相当ナメられたようである》

“軍事訓練”の開始

 不満だらけの中、飛行機を乗り継ぐ岡本は、ハイジャックの可能性について研究していた。今ではベイルートに到着した際、奥平に報告書を提出したことが明らかになっている。

 だが、ニューヨークで会った女性キャビンアテンダント(註:原文はスチュワーデス)の体格があまりにも立派だったことには、強い衝撃を受けたようだ。

《この女を相手にするのでは木刀が必要だとホントに思った。で、私の出した結論は(ハイジャックは)「不能」──》

 やっとの思いでベイルートに到着すると、待っていたのは山岳ベース事件を報じる新聞だった。

《ベイルートに着いて、何といってもいちばん驚いたのは、連合赤軍のリンチ事件を新聞で知ったことである。奥平夫人の重信房子さんとも、このことで意見を述べ合ったが、結局、何が何だかわからなかった》

 ベイルートに10日間滞在すると、いよいよ軍事訓練が始まった。

《念願の軍事訓練の場所──バルベックへ移ることになった。バルベックはベイルートの北方にある古代遺跡で有名なところだが、夜の最終便のサービス・カー(註=乗合自動車)で奥平同志と二人、小雨の中を向かった》

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