キーウ市長、ボクシング世界王者時代に見せた不屈の精神 4年間のリハビリ…復帰戦で世界王座を奪回(小林信也)

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オークワードな選手

 1971年に生まれたビタリはどんな人生を歩んできたのか。小泉に聞いた。

「ビタリのお父さんはチョルノービリ原子力発電所で働いていた。あの事故で被曝したのでしょう。ビタリが幼いころ病に倒れました。生計を支えるのはビタリの役目でした。ビタリは18歳からキックボクシングで稼ぎ、弟のウラジミールを大学まで通わせました」

 兄弟ともにキーウ大学を卒業し、博士号を持っている。だが、ドーピング疑惑に問われ五輪出場がかなわなかった兄と対照的に、弟は兄に守られるように1996年アトランタ五輪に出場し、金メダルを獲得する。

「兄弟愛が深い。お互いに世界のトップを争う立場にいながら、決して嫉妬をしない兄弟です」

 プロデビューは兄弟ともに96年11月だ。ビタリはデビューから24連勝を飾り、99年6月にWBO世界王者に就いた。翌年ケガでタイトルを失うが、その直後、ウラジミールがWBO世界王者になった。

 ビタリは身長2メートル2センチ。

「英語でawkward(オークワード)と表現しますが、ぎこちない、やりにくい、ビタリはまさにその言葉がぴったりの選手でした。

 パンチのリズムが違う、頭の位置が高い、腰を落とさずパンチを出す。相手がビタリの顔を見ればどうしてもアゴが上がります」

 アゴを上げれば危ない。だがガードを固めて屈めば、頭がビタリの眼下に広がる。

「ジャブで相手の出鼻を叩いて、オーバーハンドライトを繰り出す。弧を描いて打ち下ろす重い右が相手のアゴに突き刺さる」

 そうやって、ビタリはKO勝ちの山を築いた。

「忘れてならないのは、ビタリという人間の超絶的な忍耐力です。ヒザの負傷から4年間、先が見えない中でトレーニングを継続し、復帰第1戦で世界ヘビー級王座を奪回した。常人のなせる業ではありません。その精神力は現在の地位においても充分、活用されていると推察します」

 ビタリが9連続防衛を果たすのは、4年の苦難を経て復帰した後のことだ。

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