終戦後、朝鮮人を利用して勢力を拡大した共産党 党史には書かれない“不都合な真実”

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「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもと」

 これには相当な反発があったようである。だが朝連は、同年10月の第3回大会で8月方針に沿うよう宣言や規約、綱領などを改正。一方、日共は1947年1月、党内に朝連フラクション中央指導部を設置し、朝鮮人部の指揮下に置いた。そして3月に「朝鮮人間における活動方針」を決定する。

 ここで日共は、朝鮮人党員最大の任務を、民族の解放のために反動勢力と闘うこととし、これまでの朝連の活動を評価しつつも、

「朝連のみでは到底日本における朝鮮人の利益を正しく且つ徹底的には保障する事が出来ない」

「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもとで、その支柱たる日本のプロレタリアートとその党たるわが党によって正しく保障され擁護されるだろう」(同前)

 と、記した。さらに、

「とくに来る選挙は、日本の平和革命を遂行する上において最大な意義を有するものである(中略)朝鮮の党員は勿論のこと、朝鮮大衆をもこの選挙に対して積極的に協力、参加せしめるよう、大衆に働きかけなくてはならない」

 それが奏功し、共産党は同年4月の参議院選挙、総選挙で、それぞれ4名ずつ当選を果たしている。

朝鮮民族への特別待遇を求めていた朝連

 こうして力関係は逆転し、朝連は「日共の前衛的実力行動部隊」(同前)となっていったのである。

 もちろん資金提供も続いた。GHQによる中止命令で実現できなかった1947年2月1日のゼネストには、第3回大会で支援のための基金募集を決議し、

「一部幹部の間では、ゼネストから革命に発展し、人民政府の出現も予想していたといわれ、ゼネスト資金六十万円が日共を通して献金されたと伝えられ、また解放新聞その他を通して、強力な扇動がおこなわれた」(同前)

 もっとも朝連が一枚岩であったわけではない。そもそも共産主義を理解していないものも多く、彼らは革命ではなく民族解放を求め、不明確だった日本における朝鮮民族への特別の待遇を求めていた。日共内部でも朝鮮人部長の金天海は8月方針に難色を示し、副部長の金斗鎔は支持していたという。だから日共から離れていった者もいた。

「朝鮮人の帰国、同胞の周旋や朝連の組織強化、民団(在日本朝鮮居留民団)との摩擦などがあって、朝連の仕事が忙しくなって追いまくられるようになり、朝鮮人党員の細胞会議が正常に持てなくなった。こうなるともう日本共産党と同じ運動はできなくなった。朝連の運動と共産党の運動それぞれが担う課題が食い違いをみせはじめたからだ。共産党からは足が遠のき、連絡が途絶えたが、一部の同じ運動をしていた共産党員とは緊密に手を握っていた」(張錠壽・同前)

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