上島竜兵さんを偲ぶ 村野工業時代の「恩師」が語る後悔、旧友が思い出す“将棋とRX7”

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 お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の上島竜兵さんの突然の訃報が伝えられたのは11日。61歳だった。芸能界だけでなく、テレビを通してその姿に親しんできた幅広い世代に悲しみが広がっている。悲痛に暮れつつも、上島さんの生前の思い出を語りながら悼む高校時代の恩師は、マスメディアの取材を受ける中での苦しい胸の内を明かした。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

「ここは辛抱やで」

「私が上島君のことで取材を受けたテレビを見た80代の卒業生から電話があって、『なんでちゃんと話を聞いてやらんのや』と怒られましたよ」

 神戸市北区の自宅で困惑気味にこう打ち明けるのは、上島さんが私立神戸村野工業高校(神戸市長田区)時代、3年間担任だった柏木冨士男さん(78)だ。

 2020年11月11日の午前零時ごろ。たまたま起きていた。携帯電話が鳴った。耳を凝らすと「柏木先生ですか」と小声。「竜兵か?」と訊くと、「はい」と言った。家族を起こしてはいけないと思ってか、声を潜めていたようだ。

「自分からそういうことは言いませんでしたが、こちらが推し図って、『コロナで大変やろうけど、ここは辛抱やで』と言いました。近況なんかを少し話しました。たまたま村野工業の創立100周年の祝賀会がコロナで延期になっていたので、『また祝賀会とかを開催する時には協力してくれるな』と言うと、『はい』と答えていた」(柏木さん)

 柏木さんが「何かあったら電話するよ」と言うと、上島さんは「企画とかがあったら太田プロダクションのマネージャーにお願いします」と言ったそうだ。

「でも、その日かかってきたのは、登録していた上島の携帯番号ではありませんでした。何か理由があって電話番号を変更したようですね」(同)

 柏木さんは電話が終わってから、「なんやったんやろうな。何か訴えたかったのかな」と思った。

「そのままにしていたことを、今になってものすごく後悔しているんです。コロナで芸人仲間の会合とかも激減してしまったんでしょうか。華やかな世界にいただけに、ちょっと出番が減ったことなんかでも想像以上に不安になるのかもしれません」(同)

担任は3年間持ち上がり

 2008年6月、NHK大阪局の番組で、上島さんは久々に母校の村野工業高校を訪れた。

「校内を移動するたびに生徒がきゃあきゃあ喜ぶ。そんな光景を見て何か思うところがあったのか、それまで出身校のことなどほとんど言わなかった上島が、それ以来、村野工業高校出身ということを前面に押し出すようになったんです。テレビ番組をきっかけに母校愛に目覚めたのかもしれませんね」(同)

 工業高校ゆえペーパーテストばかりではなく工作や実験などの実技学習が多い。生徒の習熟度を見ていく必要性から、伝統的に担任が同じクラスを3年間持ち上がるという。それだけに生徒との信頼関係は緊密になるのだ。

「野球、ラグビー、柔道など、スポーツの得意な生徒が多かったが、彼は運動は苦手。それでもいじめられるようなことはなかった。なんでも丁寧にまじめにやる子でした。掃除当番なんてよくさぼる生徒がいるのですが、彼は絶対にさぼらず、丁寧に黒板を雑巾で拭いたりしていました。タバコを吸ったりなどの校則違反もまずない。ほっておいても全く心配のない生徒でしたね」(同)

 2008年に志村けんさん主宰の「志村魂」の舞台が神戸であり、上島さんが「先生、来てください」と連絡してきた。

「妻と見に行きました。そのあと、楽屋にも招待してくれました。志村さんは上島のことを『芝居に魅力がある』と褒めてくれました。嬉しかった。本当に彼を買ってくれていたんですね。志村さんとのアドリブも面白かった。志村さんが『先生が持ってきたピロシキはおいしかったな』と言うと、ダチョウ倶楽部のメンバーが『オカンの持ってきた食べ物は、もう一つやった』なんて返していました。観客は大笑いでした」(同)

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